世界へ

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幼少時から父方の祖母、母方の祖父から海外のいろんな話を聞いてきた。父方の家系は大陸に版図を広げた日本の領土に広がっていたらしい。母方は満州にいたらしい。

5歳の頃、いちご事件で世界の広さをはじめて意識した。

小学生の頃、海外から一時的に日本に来てた子がクラスに転入してきた。日本語の通じない人はそれが人生で初めてだったかもしれない。意思疎通が難しくて、切ない思いをした。

15歳で日本ベンチャー'88@朝霧高原に参加した。海外のボーイスカウト(シニアースカウト、現ベンチャースカウト)がたくさん来てて、スカウトって世界規模の団体だったんだと実感した。

16歳で交換留学で米国ケンタッキー州で高校2年生(Junior)の一年を過ごし、世界の広さを感じた。

18歳で再渡米を意識する。

20代の終わりに、米国と日本の合弁企業で働く。

30代に入り、独立して個人事業主となり、日本の多国籍企業の仕事、米国のストレージベンダーの仕事を経て、その後世界有数の独立系資産運用グループのアジアにおけるICTインフラを担う企業に入った。このとき初めて日本人ではない上司を経験した。

その後南インドに本社を置くWeb系ソフトウェアベンダーで働き、その次は北インドに本社を置く組み込みに強いソフトウェアベンダーを経験。

それから音声認識と人工知能のソリューションを提供するボストンの多国籍コンピュータソフトウェアテクノロジー企業で働く。

次は北欧に本社のある通信機器メーカーに転職。

その後はマレーシアに本社のあるITセキュリティソフトウェア企業。

仕事でも、仕事以外でも、いろんな国の人たちと知り合った。

いまもいろんな国の人たちと知り合っていっている。


夢はたくさんあるけれど、長い間願ってきたのが、

「様々な国の人たちと友達になって、世界中の人たちと心をつなげたい」


不思議なことに、そのために特別に努力したつもりもなければ、偶然や運命に逆らえるようなことも当然無かったのにもかかわらず、いまそれが実現している。

だから、さらにその先の夢「世界中を訪れたい」も、叶いつつあるのだろう。

僕が訪れたことのある国、まだまだ少ない。

アメリカ、インド、マレーシア、台湾、オーストラリア、タイ、カンボジア。

世界には数百の国がある。

それぞれの国に地域がある。


今日出会ったポーランド人の女の子が僕にたくさん質問した。

「東京で喫煙している人はいないけど、大阪にはいる。どうして?」

「京都では自分が外国人だからなのか疎外感があった。どうして?」

人をよく観察している子だな、と思った。

日本という国の中にある地域性に着目しているのだ。


日本での地盤固めは見えてきた。世界に羽ばたく瞬間は遠くないだろう。


インド人の友人を通じて、また新たなインド人の友人ができた。

彼は僕に聞いた。

「会社辞めて、いまはHappyかい?」

僕はこう答えた。

「覚悟していたつもりだったけど、想像以上にタフだったよ。困難には何度も挫けそうになった」

「そうだろうね、技術だけじゃなくて営業もマーケティングも経営も全部自分でやらなきゃいけないわけだからね」

wiseな人だ。

「そう。めちゃめちゃ苦しかったこともあったし大変だけど、後悔は全くしていないんだ。充実してて、最高に幸せだよ」

それを聞いた彼はとても納得したように見えた。

彼の瞳は、情熱と知性を兼ね備えていた。


僕は友人に恵まれている。

素晴らしい友人だらけだ。

幸せだ。


友を作る方法は、と聞かれたらうまく答えられる自信はない。

そんなことあんまり考えないから。

でもとにかく僕は好奇心が旺盛だし、

いま目の前にいる人と仲良くなっていろんな話や経験を共有できたらどうだろう、って想像する。

それってとってもワクワクすることだ。

一期一会。

ちょっとしたきっかけで知り合った人が、一生の友になることは、人生でたくさんある。


若い頃の僕は長い間、友を裏切らないことと、ビジネスをうまくいかせることの狭間で悩んでた。

僕は友人のパソコンの悩み事はお金をとらずに解決するのに、仕事になるとお金をとる。

問題は、仕事相手(客やパートナー)に対して思い入れがあって、単純にお金で解決できない自分。

テクノロジー職として会社勤めしていると、お金に疎くなる。お金のことは営業やマーケティングや財務や経理がやってくれるから。

セールスエンジニアの経験は大きかった。営業とともに行動するから。

でもこれは、問題じゃなかったのだ。


お金を意識しすぎないことは、とても大切なことだった。

というか、

お金を原動力にした時点で、自分自身に対して苦しみを課すことになる。

楽しく仕事をするとき、お金なんていつも関係ない。

そして楽しくない仕事が人生で出来た試しがない。

楽しくない仕事をするのは僕にとって、顧客を裏切る行為なのだ。


楽しく仕事をする。それは、夢中になることだ。

「好き」くらいじゃ足りない。

もう、大好きで大好きで夜も眠れないほど、

気になって気になって、この先の展開をどうしようかと、寝ても覚めてもそのことが忘れられないくらい没頭する。

仕事に恋しているのかもしれない。恋ってそういうこと?

さだまさしは

「奪い続けるのが恋、与え続けるのが愛」と表現したが、

僕にはよくわからない。奪い続けるのは恋というより搾取・裏切り・隷属に感じられてしまう。

好きな相手にそんなことできるわけないじゃん。

仕事でいつも心に浮かぶこと。

その仕事の依頼者の心。こんなに大切なことを僕に任せてくれた。それは大きな原動力。

それはやがて、依頼者に対するものから、仕事そのものに対する愛情に発展していく。

これで本当に自分は納得できるのか?

他にもっといい方法があるのではないか?

自分の信じたやり方を、納得できるまで突き詰められているか?

このレベルで相手は笑顔になってくれるだろうか?

僕にとって「仕事」という言葉は冷たく聞こえる。

なぜなら、

友人やパートナーや家族のことをとことん思って行動することと、

お客様やビジネスパートナーのことをとことん思って行動することは、

僕にとって違いは何なのかよくわからないくらい、同じようなことだからだ。

与えるモノが違うだけ。そのときそのときで。


仕事相手は愛情を返さずカネで解決するでしょうって?

まったくそんなことない。

仕事相手とプライベートの相手と、どっちも人間です。愛情には愛情を返してくれる。これは経験上、100パーセント、間違いない。

それに、お金はビジネスでもプライベートでも、天下の周りモノで、あんまり心配する必要ない。

お金をとらないことが逆に相手を傷つけることもあるし、お金をとるべきではないときもある。


お金をとるか、とらないか。とるとしたら、いくらとるか。

これも実は勝手に決まってくるところがある。相手が一番喜んでくれそうな金額というものが見えてくるのだ。

その金額に対して「高すぎる・安すぎる」という判断をするのはおこがましいくらいに感じる。

本来なら価格はすべて払う人に決めてもらいたいくらいだ。

どうして売る方が価格を決める?

与えるモノの価値は、それを使う人が決めるものだと思ってる。

どんなに店主が自信をもって作ったラーメンでも、

食べた人がおいしいと思わなければ、そのラーメンに払いたいと思う金額は低くなる。


こうした潔さで仕事をしていると、実力勝負になる。

これが本来僕が求めていたものなのだ。

高い金額がいただけないのだとしたら、それは間違いなく自分の側の問題なのだ。

どれだけ誇りをもって仕事を完遂できたか。

どれだけプライドを捨てて己を鍛え上げられたか。

こういうことが、楽しくて仕方がない。

だって若い頃の長年の疑問が解消したばかりでなく、やってみたら、その通りだったから。

もちろん簡単にここまで来ることができたわけじゃない。

途中で苦しんだ。これも未熟ゆえのことだけど。

生活にすら困窮するようになると、

自分が信じたやり方は間違っているのだろうか? とか、

自分は他人のアドバイスが聞けないただの頑固者なのか? とか、

疑念がわいてくることがある。

それはとても苦しいものだ。

否定されたときなんてもう最悪。

自分が間違っていた可能性は、胸にくる。

だからとことん考え抜いて、ときには瞑想して、考え抜く。

人を幸せにしようとしてとっている僕の行動は、人を不幸にしているのか?

あるいは結局自分が満足したいだけの利己的な考え方を拗らせているだけじゃないのか?

と。


しかしそのような葛藤は、まったく正しい。

葛藤がなかったら、それこそ人格的に終わりだ。

自分が正しいと信じる根拠は、必要なのだ。

その根拠とは、世界中の誰よりも自分が一番、自分のことを疑う存在であろうとし続けることだ。

それは難しいことだし、達成できているかどうかの評価基準もないから、苦しいことでもある。

でも、悩み抜いて、考え抜いて、もうこれ以上ないというところまで自分の弱点や甘さに正面からぶつかってみること。

あるタイミングで、フワっと浮遊感のようなものが訪れる。

これ以上考えても無駄だ、これ以外の道は無かったと、納得する瞬間のことだ。

そうなるともう、自分は正しいか間違ってるかは、問題じゃなくなる。

だって自分にはそれ以外の選択肢がないから。

世の中にはもっと優れた選択肢があるのかもしれない。しかし己はここまでしかできない未熟者であり、その上で自分をギリギリまで追い込んだという事実は、実は追い込んだのではなく、己の本質をあぶり出す行為で、とても大切なことなのだ。

こうした過程を経て得た自信というものには、自分なりに最高の根拠が伴う。

だから人生に悩みというものがなくなったら、人として終わると思ってる。


他の人はどうだか知らないが、精神的限界に近い状態を迎え入れるということは、個人的にはとても勇気が要ることだ。

苦しい時、助けてくれるものは、結局「いのち」である。

「人」と書かないのは、

いのちのすべてが助けてくれる経験をしているからだ。

人。たとえば家族、パートナー、友人、同僚、知り合い。それから本の著者。YouTuber。作曲家。作詞家。シンガー。演奏家。芸術家。映画監督。技術者。職人。

人以外。猫。犬。あらゆる動物、虫、微生物。木々、風、炎、空、海、川、山。宇宙。星空。太陽。月。雨、雪、雷、台風。想像することも見ることもできない偉大なもの。摂理。

やっぱり、あらゆることが僕を助けてくれている。

この、あらゆることを、僕は「いのち」と表現している。


世界へ。

そんなに難しいことじゃないんだとわかってる。

宇宙へ。

それも結局、できちゃう。

なぜか?


僕は僕が思いつく限り最高の目標設定をするタイプだ。

目標設定が高くシフトしていくと、

人生に大きな変化が起きる。ときにはそれは、耐え難いような試練にも感じられる。

耐え難いような試練があるとき僕は思う。これは、一時的なものだ。

ぶっ飛んだような高いシフトほど、その影響は免れ得ないのは当然だ。

そんな楽にシフトできるものなら、もうみんなとっくにそうしてるし、

人生の意味なんて無くなっちゃうじゃないか。

なんでもかんでも簡単にするのは、僕は受け入れられない。

まったく反対しているわけじゃない。

「適切」「適度」「適当」というものがある。


世界へ。

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