新しい朝が来た。希望の朝だ。
僕はすべての理由とともに、今日も自分を生きる。
これからは、自分を隠すことを意識しないことにした。自然体でいようと決めた。
謙虚ではあるが遠慮はしない。
これまで通り、目標は変わらないが、理解してもらうために時間をかける必要はない。
全ての本質は背中が語る。
人は皆、他人に映る自分の姿を見て己を知りたいという願望を持って生まれてくる。相手の姿に己を見出し、共感によって己を知る。
真実の鏡は美醜全てを映し出す。見たいものだけを見て他を無視するのか、それとも全てをありのままに受け止められるのか、それは個人の選択に委ねられている。
歪んだ鏡には真の姿は映らない。人は皆、潜在的に真実性の高い鏡を求めて葛藤し、出会いと別れを繰り返す。
信じることをやめたとき、光は失われる。薄明かりの下では、鏡は多くを映し出さない。漆黒の闇の中で鏡はなにも語らない。
自分を見失ったとき、あなたは周囲の変化を感じる。暗い世界に囲まれて絶望する。しかしそれは己の発する光の弱さと連動していることに思い至っていない段階だ。
生命ある限り、光を発するエネルギーに限界はない。それを忘れてしまうと、迫る闇に飲み込まれるような感覚に陥ることがある。
すべては自分次第である。
より大きく、大きく物事を捉えることによって、客観の境地に立つことができる。そのときあなたは、ある悟りを得る。苦しみや悲しみから解放される。
そのために必要なたったひとつのこと。それは、己と向き合うことを恐れないこと。
あなたには生きる使命がある。
求めずに与えることに喜びを見出すこと。
それが新たな希望を与えてくれることになる。
エゴに向き合い、己を信じることができるのは己しかいないことを理解するのだ。
僕は世の中から苦しみや争い事をなくしたい。
そのために必要な技法や知識を身につけてきた。
悠久の時を経て、時は満ちた。
その証が僕の魂を揺さぶる。
そうか、手放すこと。
固まりかけた献身のエゴが解け、僕は僕のために生きてきたことを深く知る。
この願いが、僕を満たすことが、僕を疑うこととセットになって、中庸の道を踏み外さなかったことを認識して、涙を流した。
バランス。調和。
ゴールは偏っていなかった。
来るものは拒まず、去るものは追わず。
篩は動かしてはならない。己の使命を果たすため。
篩の目はできる限り細かくしよう。己のための場を作り、維持するため。
要らぬプライドは捨てて、地を這え。空飛ぶ夢を忘れずに。Stay hungry, stay foolish.
かくして僕は、ずっとずっと、長い間、求め続けてきたものを見つけた。それは端的に表現するならば、意識と無意識の統合だった。
どうして自分にだけ「観える」ものがあるのか。喜怒哀楽の果てに与えられた人生を生きて、こんなにも満たされてきたのに、どうして僕は何かを探し続けることをやめられなかったのか。
そう、ときに苦しみの果ての絶望に苛まれ、ときに乗り越えた喜びに打ち震え、尊敬してやまぬ素晴らしい人々に助けられ、地獄の果ての一歩手前で何故か僕はいつも見えない存在にすら救われてきた。
そんなことを繰り返した果てに、願った通りの生き方ができていることをとうとう認知できて、求める由もなかった幸福と充実に満ちた日々を送ってきた。
もう欲しいものはなにもない。
……そのはずだった。
その光は僕の内側、外側、あらゆるところから僕を照らし出し、すべてを白日の下に晒した。
僕は僕が生きてきたことを知った。
全ての行動の理由がつながってしまった。
心のもっとも奥深いところにあった、足りない何かを探しているような感覚。常にそこにあったのに、うまく捉えられなかった何か。
課題を乗り越え、より繊細になり、より敏感になり、より明るい方を目指すことを諦められなかった。
その原動力は一体何なのか?
僕を突き動かす好奇心。それは何なのか?
僕の中は常に、そうした、考えても答えなんて出そうにない疑問に満ちていた。
目先のことに目を向けるべき時も、生きることがギリギリの時も、そうした疑問に対する答えを探すことから逃げることはできなかった。
そのために、多くの誤解も受けた。
生きることに怠けているように見えるのだろう。それもわかってる。稼ぐこと、生き抜くことに「必死」になっているように見えないのだろう。
僕だって葛藤してた。でも、どんなに諭されても否定されても、そうした疑問の答えを探すことから目を逸らすことはどうしてもできなかった。
心と頭が引き裂かれるような日々もたくさんあった。
しかし、そんな時は、神との対話を得た、2019年の臨死体験を経て、突然終わりを告げた。
全てが赦されたのだ。
僕は光の探究をする自分を責めるのをやめた。
誰にどう思われるかなんてどうでもいいと、開き直りかけてた想いが100%肯定されたのだ。
生きるのが楽になった。
自由になった。
過去の全てのわだかまりが解け、自分が決して曲がらずに生きてきたことが理解できた。
誰にも理解される必要はなかった。僕は、長い時を経て、ずっとずっと知りたかった数々の疑問の答えを得たことで、自分に迷うことがなくなったのだ。
すでに最高の幸せを手に入れていたと思っていたのに、さらにその上の幸福があるなんて、夢のようだと思った。
僕は自由をとうとう手に入れた。己の足枷を己の力で解き、心は軽く、毎日が希望と充実に満ちた。
何もかもが思い通りになると信じ切れる。こんな素晴らしい世界があるなんて。この幸せを多くの人に感じてもらえれば、世界から争いなんて消える。
2019年のあの日から僕はこんな心境で生きてきたのでした。
これ以上の幸せなんて存在するわけがないと。
しかし、
それは間違いでした。
心の片隅にまだ、あったのです。
奢れるもの久しからず、という言葉がよぎった。でもその言葉に暗いイメージはなく、僕は僕の中に「ここが最高地点の頂上だと決めつけてはならない」という心の声を認めていました。
でもそんなことは考えても仕方がないことで、僕は毎日を全力で生きていました。
いつも全力だったけど、どんどんやれることが増えていくのは最高の体験。
明日はないかもしれないからこそ、いまを生きることに全力。
そんなある日のこと、
それは、突然起きたのでした。
さらに強い、光が、僕の人生を照らしたのです。
その光はまるで、
こらまでの人生でいちばん明るかった光が白熱灯の灯りだったことを思い知らされるような、青空に輝く太陽のような光。
明るさが、比較にならない。
最初に感じたのは、
救急車の中で臨死体験をした時のこと。
あの時、あっちの世界で僕を包んだ光。
真っ白という形容詞ではとても言い表すことができないような光。
おそらく人間の肉体を持っている限り、感じることのできないほどの光。
実際、仮死状態から戻ってきた僕は、その体験の感動も、感じたことも、説明不能で、忘れたくなくても消えていく夢の記憶のように、時とともにそれは薄くなっていました。
そんな光が、突然僕を照らしました。
死んでもいないのに!
そこから僕は、さらなる理解への旅をしました。
その光に頂点はなく、無限に続くこともわかりました。
そして僕がずっと探し続けてきた何か。
それは既に、手にしていたことを知ったのでした。
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