Against All Odds

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自動車が人の乗り物であるように、肉体は魂の乗り物です。

あなたは肉体をまるで初めから自分のものであったかのように振る舞っていませんか?

生まれたばかりの赤ちゃんが成長していく過程を観察していると、肉体は初めからわたしたちのものではなく、誕生のときに授けられ、死とともにお返しするものだということがわかります。生まれ落ちた瞬間から肉体をうまく乗りこなす人はいません。初めは歩くことはおろか立つこともできず、物をうまくつかむことも、うまく食べることも、物体にピントを合わせて見たり聴いたりすることもままならないのです。

肉体はわたしたち個人の所有物ではなく、人間として生きている間だけお借りしていると考えるのが自然でしょう。

肉体の借用期間を終えると人は死にます。


わたしは本来、6年前に借用期間を終えてこの世を去るはずだった人間です。肉体の借用期間を終える理由は色々ありますが、わたしの場合は次の通りです。

  • ノーブレーキな肉体の使い方:
    理由も明確でないままに長く生きるために肉体を保護することについて全く無頓着であった。過去の人生のあらゆるシーンにおいて、肉体の耐用期間のことを考慮することなく、全身全霊で肉体を酷使してきた。なので30代に入る頃には既に、この肉体はそう長く持たないかもしれないし、もし短命だったとしても仕方がないなと割り切って生きてきた。人には健康についてとか将来についてとか散々小言を言われたが、自分の肉体に使い方について曲げることはなかった。わたしの肉体は何度も危機に陥ったが、とうとう2019年に明らかな悲鳴をあげた。その時わたしは、生きるために必要なことはすべてやった上で、ここでもし終わったしても全く後悔がないことを自認した。
  • 使命(人命)を果たした:
    人としてわたしは必要十分な命を果たした。他者との関わり合いを通じて、必要なことはすべてギリギリ残せたという満足感があったし、それは自身のNDE(臨死体験)において見事に証明された。
  • 次の人生について識った:
    人生は死んで終わりではなく、肉体は滅びても魂は滅びずという事実がNDEを通じて証明された。俗に言う輪廻転生が起きることに疑いがなかった。

ところが2019年のNDEにおいてわたしが新たに識ったことや選択したことがあります。

  • 肉体借用期間の延長:
    さまざまな不具合を起こしながらも、肉体の寿命を延長させることと肉体的健全度は無関係であることを教わった。人が死すときは本人や関わり合いのある人・生命が、わたしが死すべきと受け入れた瞬間にある。わたしの肉体借用期間は延長可能であると、選択を迫られた。期間の延長は人としての命(人命)のためではなく、人命の観点からすれば「受け取るものがある」だけだった。
  • 使命(地命、天命)は果たしていなかった:
    命(めい)というものは奥深く、目先に観えているものもあれば、まだ観えていない(と思い込んでいる)ものもある。
  • 次の人生はないと識った:
    輪廻転生は存在するが、特定の条件を満たすと次の段階に進み、肉体を得てこの世界に還ってくることはなくなる。まさに最後の人生。

わたしは死を恐れません。悪いものだとも思っていないし、不幸であるとも思いません。

そして近頃、そろそろ本当にこの肉体は限界近いということを意識することがよくあります。おそらくその感覚は正しいのだろうと思います。わたしは、毎月、月の満ち欠けに合わせて、いわば肉体借用の延長手続きをしています。それは延長申請ではなく、まだ延長することができるのかどうかを神様に問うような心持ちで行います。明確な回答は返ってきませんが、生きているという事実そのものが神の回答です。(神は己の中に宿る)

実際には毎月の「延長手続き」だけでなく、毎日(とくに毎朝)にもチェックが行われています。生きているということは、様々なしがらみやイベントを必然として受け入れるということでもあります。ときには無理をしたくなくても無理をする。誰とも会いたくない日でも会うこともある。毒を肩代わりしてあげるつもりがなくても肩代わりすることもある。慈しみや感謝の対象になることもあれば、恨みや妬みの対象になることもある。そのすべてを感じながら生きることには大きな価値がありますが、同時に肉体はどうしてもダメージを受けていくのです。その「肉体」を疲労から回復させたり体内の毒を処理したりするために特定の行動をとることがありますが、それは生きながらえるために行われるというよりも、使命を果たすために「こうしなさい」という内なる声が上がり、それを受け入れて行動することのように感じています。

こうしてなんとか生きてきてはいますが、過去の流れからみても、わたしの使命は多くの人が「道半ば」と思うところで完成するのだろうということは、何となくわかっているつもりです。これまでの仕事や人間関係においてもそうでした。道半ばのように見えるのですが、きちんと根回しをして、周囲の相手の望みを理解し、調和させておけば、此処から先はわたしが不在でもうまくいくと確信できるタイミングがあります。それを感じることができたら僕は苦しい人間関係をそっと手放したり、会社を退職したりしてきました。それで僕が去った後に、すべてが感じた通りにうまく調和していくのを、遠くから眺めるのです。

おそらくタイミングが近いのでしょう。わたしがこの世を去るまでの時間はそう長くないと感じます。なにか予想外のイベントが起きたり流れが起きたりすれば違ってくるでしょうが、いまのところわたしの肉体は上下の波を繰り返しながらも全体としての値は着実に降下してきています。無理をしなくなったとか内観が進んで受け止め方に余裕ができたとか肉体とのつながり方を半世紀かけて習熟してうまく対処できているとか、そういったことがあるから、うまく生き延びているようです。

生に執着することはありません。

ここでわたしが感じている「事実」をきちんと書いておくことは、残される方々にとって大切なことであると思っています。だからこうして書いています。

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