インドでテロが起きる前日まで、会社の同僚がムンバイにいました。
危ないところだったと、会社でも彼の無事を聞いて安堵の声があがりました。
今回の同時テロによる一般人の被害は凄まじく、なかでも邦人の方が1名犠牲になり、普段あまり海外でのテロなどに興味の無い日本人の方にとっても非常に気になるニュースだったのではないかと思います。
このニュースを見てからというもの、被害者のご家族のことを思うと胸が苦しくなり、仕事中でも涙が出そうになるのを堪えることができません。本当につらいです。
誰かが「乗客に日本人はいませんでした」なんていう、邦人最優先の報道に対して批判をこめた歌を唄っていたけど、やはり同じ国の人が亡くなるということは、精神的なインパクトは大きいものなんだなと改めて実感しました。
問答無用の悪の象徴であるテロリストによる事件だということで、国内においてもさまざまな意見が飛び交いました。
「他に主張の手段は無いのか?」
「なぜ一般人を殺すのだ?」
「インドはまだまだ危険な国であることを認識しました」
・・・
最近仕事で海外に行くことが多いのですが、やはり日本から一歩も出ないでいると、情報だけ手に入れて頭で理解していても、体で感じない限り分からないことって本当に多いと思います。
情報だけでわかることなんて、ほんの一部です。
インドだって、ほとんどの皆さんが、どんな国なのか殆どらないと思います。
インドといっても、すごく広いです。
この狭い日本ですら、北海道と沖縄ではまったく違う文化がありますが、インドはさらに広い国土に、日本の10倍以上の人口が暮らしています。
そして、今でこそ「インド」というひとつの国を成していますが、歴史的にはまったく異なる文化を持つ小さな国がたくさんある場所でした。人種もまちまち、宗教もまちまちです。
インドの歴史は長いです。気が遠くなるほどに。
数年前に発見された、世界最古の遺跡(約1万年前の遺跡)は、インドの沿岸(海の底)で見つかりました。
あなたが海外に出かけて「日本という国を一言で説明して」と言われても困ると思いますが、インドという国はさらに多様性を持った国で、住んでいる人たちですらすべてを把握できないような、カオスの国なのです。
宗教的なことも、日本というごくごく限定された環境で育て上げた価値観だけをもってインドを批判すれば、視野が狭い言葉しか出てこないといわざるを得ません。
宗教が人を殺していいのかといえば、僕は絶対にNOだといいますが、彼らがなぜテロという行為をもって人を大量に殺害するに至ったのか、日本にいただけでは腑に落ちる回答は得られないはずです。
だから、憶測だけで議論している日本人たちを見ると、悲しくなります。
僕がはじめてインドに行ったときのこと、いまでも鮮明に覚えています。
経験のある上司に事前にいろいろ情報を聞いていて、世界のITの中心地に行くんだという期待で胸が膨らんでいました。
実際に現地に降り立ってみて、熱のこもった湿気のある空気、埃っぽい風、どこにいっても逃れられない砂、体を射抜くように突き刺す太陽、そして人、人、人。
イメージしていた、最新テクノロジーの中枢だって、砂、砂、そして人、人、人。
全然違いました。
空港に立つ軍人が持っているのは拳銃でもショットガンでもなくて、使い込まれた黒光りする重そうなサブマシンガン。
あんなもの連射されたら、確実に死ねます。
とにかく、死というものが近い、そう感じました。
(もちろんそんな印象だけではないですよ)
日本のような先進国には、死の匂いがありません。
そして、生のエネルギーもあまり感じません。
インドは死も身近にある国ですが、思わずのけぞってしまいそうなほどの圧倒的な「生」、Lifeのエネルギーが溢れています。
人々の目が輝いています。
子供たちの笑顔が屈託無く、子供らしく生きています。
今回の件でインドに対して警戒心を持ってしまった日本人は少なくないと思いますが、僕はインドが大好きです。
いまは仕事でインドに行く機会が失われてしまいましたが、そのうちプライベートででも行きたい。そう思ってます。
インドというのは不思議な国で、遠く離れているにもかかわらず、なぜか日本人である僕が非常に親近感を覚える人たちがたくさんいるのです。ほかの国の人たちとはそういう経験はありません。
テロリストたちを憎んでも、世の中はよくならない。
なぜ子供たちが武器を手に取り、人を殺す組織に入り、テロリストになっていくのか、そのプロセスを考える想像力がいま求められていると思います。
そのプロセスを憎み、絶たなければならないと信じています。
コメント
インドの山奥で修行すると、ダイバダッダがレインボーマンにしてくれるんだよね。
なつかしいねそれw