人を信じることの難しさ

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今日のテーマは、人を信じることについて。
とても難しいことだって、少しわかった。
年をとるほど、難しくなることだってことも……。

言葉にすると単純だから、わかったつもりで全然わかっていなかった。

自分はいままでの人生通してどちらかというと人に裏切られるより裏切ることのほうが多いダメ人間だった。
今でも結構なダメ人間だけど、自覚がある分ちょっとはマシになっているってことにしたい。
それから、病気の経験とかもあって、頑張りすぎも良くないって知った。社会は、ちょっとくらいダメ人間でも、受け入れてくれるって。

「性善説」なんて言葉を当たり前のように使っていた。
人の根っこは、善なんだよと。 善い人に恵まれて生きてきたから、当然そうなる。 疑うことを知らなかった。いろいろ問題がある人とも出会ったりしたけど、話せば分かると信じてた。分かり合えないケースだってあったはずなのに、あまり深く考えてなかったんだろうと思う。

友人(だと自分が思ってた相手)からの、ひどい裏切りを経験した。

どうして裏切られたのか、訳を知りたくて、つらかったなあ。

理由がわかれば、少しは平和な気持ちになれると思って。
しかしどんなに考えても、出てくる理由は僕の想像でしかなかった。
すべてが手遅れで、本人に聞くことができない今、いくら考えたところで正解を教えてくれる人は誰もいない。記憶が色褪せるとともに、自分とあの人との人間関係も消えていく。僕たちの間で一体なにが起きたのか、そもそも友情があったのか、知る人は自分以外に誰もいない。
よく回らないバカな頭で考えた。可能性をすべて考えた。何年も、何年も考えて、今も。

裏切りが裏切りであると確信できさえすれば、ちょっとは楽なのに。
もしかしたら何か別の理由があったのかもしれないという僅かな期待もある。僕はこれを忘れる以外に方法がないのか。もともと少なかった友人のほとんどを失ってきたから、忘れることはつらい。どんな終わり方をしたにしても、忘れたくない。

しばらくして、誰も信じられなくなった。

妄想に近いんだけど、いままでさんざん迷惑や裏切りをはたらいて生きてきたから、もしかしたらこれは壮大な仕返しなのではないか、なんて考え始めた。そしたら、誰も信用できなくなってしまう。精神崩壊の一歩手前。誰も信じられないという恐怖は、体験しないと絶対にわからない。人はこんな心情を持つことができるのか、という新しい発見でもあった。

救ってくれたのは、家族だった。

「この人は信用できる人間か?」
すべての人に対してこれを問う。本当に信用できると思える人を見つけたくて。こんな問いを身内にまで向けるなんて、とんでもなくひどい事だけど、「信用できる人だ」を否定出来ないことを自分が納得するまで証明しないと、誰も信じることができなくなっていた。少しでも疑問の余地があったら、おそろしい裏切りの可能性を考えてしまうのだ。こういう精神状態になっていると、ちょっとでもマイナス要素があるとそれが頭のなかで増幅して、疑念になってしまう。人間とは恐ろしいものだ。

まずは妻を信じるところから、長い旅が始まった。とにかく妻が信用できる人であることを自分に納得させるための材料を集めていた。次に、親に対して。 さらに、妹や弟に対して。 義理の両親に対して。

こうやって対象を増やしていった。

「自分を裏切ることによるメリットがあるか?」
「自分を陥れる理由があるか?」
「その人に恨まれるようなことを過去にしたか?」

ひとつひとつ、頭の中で箇条書きしていく。
もう自分の直感はあてにならない。なるべく客観的に判断しないといけない。

死にたくなった。

そんなこと、できるわけがないから。

一方通行の信頼ことを信用とは言わない。この人なら大丈夫、と信じるのが信用だ。誰も信用できない自分は同時に誰からも信用されない。

結論のあとまわし。やれることだけやって、あとは閾値をさげてみよう。

そこからどうして自分を組み立て直すことができたのか、よくおぼえてない。
しかしその時点から、人を信じるとはどういうことか、について考え方が変わった。

あの人は、一体どうして僕を裏切ったのか、それはもう地獄まで持っていくしかないな。

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