自己啓発と努力と成功について

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  • 2014/8/20 加筆修正しました。章を追加しています。
  • 2014/8/21 加筆修正しました。相変わらず長文ですが、多少読みやすくなったと思います。
  • 2014/8/22 加筆修正しました。重複した内容を削除し、章の順序を見直しました。
  • 2016/10/31 加筆修正しました。

はじめに

ここしばらく本気で将来について検討していた。
将来といっても遠い未来の話ではなく、今年来年の話。
いま心の中に引っ掛かっていることがいくつかあって、モヤモヤしてる。
でも理由がわからない。
それがなんだろうかと考えていたら、すっかり忘れてたいろんな記憶が蘇ってきた

なんということだろう。
人はどうしてどうでもいいことを覚えていて、大切なことも忘れてしまうのだ。
大事なことだったのに!

忘れないうちに書いておこう。

「7つの習慣」が流行ってるらしい。もともと人気のある本だが、近年マンガ化もされたし、新訳版も出た。いま仕事をさせていただいている会社でも、従業員に本を配布して勉強会を開催したりしている。知人や元同僚からも同じような話を聞いたことがあるから、おそらく少なくない数の会社で似たようなことをやっているのだろう。

7つの習慣は、以前知り合いから熱烈に薦められて興味を持ち、読んだことがある。意味がよくわからない部分があったので、英語版も手に入れて読んだ。仕事がうまくいかなくて行き詰まっているときだったので、すがる気持ちでいくつかのことを実行してみた。「PQ」や「人生は手帳で変わる」など関連図書も読みあさって、気がついたらフランクリン・プランナーにミッション・ステートメント、価値観、目標、タスクを書き始めていた。

フランクリン・プランナーのリフィルは高額で、毎年5,000円以上かかる。様々なリフィルが用意されており、揃えていくと万単位のお金がかかる。とても分厚い手帳になるので、仕事ができる人間に見えるかもしれない。

7つの習慣の中に書いてあったことのうちいくつかが心の琴線に触れ、それで行き詰まった状況を打破できたことがあった。そんな頃、このブログで7つの習慣を推薦した。

しかしその記事は削除した。
なぜなら、自己啓発の素晴らしさと恐ろしさに関わる記憶が戻ってきたからだ。
なにを大げさな、って思うかもしれないけど、個人的にはとても大きなことだったから……。

自己啓発とは何か

自己啓発とは文字通り、自分を啓発することだ。啓発とは辞書によれば「気付かなかった物事に気づかせ、教え、理解させること」らしい。つまり自己啓発とは「自分の気付かなかった自分自身の物事に気付き、理解すること」ということになる。

それは具体的にどのようなことなのか。

学ぶことと実践することについて

誰かが「あなたは私から見たらこういう人ですよ、だからこうすべきではないでしょうか」と教えてあげることは、教育や指導であって、自己啓発ではない。

水泳に例えてみよう。

より速く泳ぐために、水泳選手は次のようなことをする。

  1. 学習する

「学習する」を具体化すると次のようなものがあるが、手段が違うだけで、どれも同じことだ。

  • 人の手を借りる(教えてもらう)
  • 器具を使う(補正する)
  • メディアを使う(本、写真、動画などで自習する)

「実践する」を具体化すると、次の2つのプロセスがある。

  • 練習する
  • 考える

練習する。考える。考えたことをもとに練習する。繰り返す。

教えてもらえないこと

経験豊富なコーチやトレーナーがついていれば、フォームの修正や筋力の足りないところなど、具体的なことを教えてもらうことができる。記録を伸ばすための生活習慣や気持ちの持ち上げ方、考え方、練習メニュー、食事の指導もしてくれる。

一方、教えてもらうことが不可能なことがある。
本人にしかわからないこと。本人が気付くしかないこと。

まもなくパンパシフィック水泳の大会がオーストラリアで開催されるが、北島康介選手が平泳ぎについて次のように述べていた。

「練習を反復して、あるとき自分の手足の動きを三次元的に把握できるようになる。そうすると、自分の体のどの動きがどう影響しているのかがよく見えるようになる。その段階になると、選手は一段強くなる」

いま、あなたは平泳ぎをしている。
コーチに「手足の動きを三次元的に把握しなさい」と言われて、すぐにできるだろうか。

また、あなたが一所懸命練習を積み重ねた結果、ひとまわり強くなるきっかけとなる何かが得られるかもしれない。しかしそれは北島選手とは違うものかもしれない。北島選手とは別のルートを通って、速く泳げるようになるかもしれない。

結局のところ、自分で気付くしかない。

つまり経験を重ねるということだ。
ただ闇雲に経験を重ねても進歩しないことは皆さんご存知だろう。
経験を豊かにするということは、その中で多くの発見や気付きがある。これが、反復練習という砂漠の砂粒の中に光るダイヤモンドだ。
このダイヤモンドをたくさん集めることで、学習したことが身につき、学習できないことを会得する。

また同時に、不要なものがふるい落とされる。砂粒をふるい落とし、ダイヤモンドを集める。前進の障害となる間違った方法や心が身体が覚えた無駄な記憶を消していく。

この「得ること」と「捨てること」をまとめて、僕は「自己啓発」と呼ぶ。

どこまで突き詰められるか

では実際に、自己啓発はどのようなプロセスをとるのか。

まずはじめに目標がある。
水泳選手なら「速く泳ぎたい!」って本気で思う。
絵描きなら「絵がうまくなりたい!」ダイエットなら「痩せたい!」ビジネスなら「仕事ができるようになりたい!」弁護士なら「この人を弁護したい!」医師の卵なら「国家試験をとりたい!」など、人によっていろいろあるだろう。

目先の目標のさらに上には「人生の目標」があるそうだけど、そんなこと考えてもわからないから。

成功とはなにか。成功とは、目標を達成すること。

それでは、成功するためにはどうしたらいいのか。

先ほど書いたように、ひとつは学習。本に書いてあることをすべて読み、指導者の言うことを覚える。それだけでも大変なことだが、マイルストーンは明確だ。しかしその半面、やる気さえあれば誰にでもできるから、差をつけにくい。

北島康介選手と同じコーチから指導を受けて、同じ学習をして、同じだけ練習をしたら、同じだけ強くなるだろうか。

自分の頭で考えながら鍛錬していくしかない部分がある。
なぜライバルにいつも負けるのか。
なぜヒットが打てないのか。
なぜ上手をとられるのか。
なぜ対戦ゲームで勝てないのか。

成功したい本気度で、どこまでやれるかが決まるだろう。
本気で勝ちたかったら、練習しまくる。
人に与えられた時間には限りがあるから、めちゃめちゃ考えながら練習しまくる。

練習の「量」と「質」。両方で圧倒したら、成功する。

この本にもひとつのヒントがある。

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本気じゃない人はもうその時点で負けている。

効率的に成功できるのか

多くの人が同じ目標に向かって全力で走っている。水泳ならば、たとえばオリンピックの金メダルや世界新記録。企業なら、市場のシェアを獲得する。自分がよいものだと信じているものを、より多くの人に広める。医師ならば、より多くの患者を助ける。研究者ならば、人類に貢献できる発見・発明をする。

練習では量と質の両方が大事だと書いた。

人に与えられた時間は同じだから量で差をつけるのは難しい。
砂漠の中にあるダイヤモンドをより効率的に見つける方法はあるだろうか。

ある。経験豊富なトレーナーの指導を受けるプロのスポーツ選手がそれだ。

それでは、その方法を教えてもらえばいいじゃないか。

それが世の中にある「自己啓発書」じゃないか?

そうなの?

自己啓発書を読めば、北島康介選手が言う「三次元的に身体を捉えられるようになること。そうすればひとまわり強くなる」のようなことが書いてある。
しかしそれは言葉で伝えられるノウハウではない。
優秀なトレーナーも、なるべく効率的にできる手段を用意するけど、それが功を奏するのか、しないのかは神のみぞ知る。

イチロー選手がこのあたりに関連するコメントをしているので、後ほど紹介しよう。

もしそんな「ショートカット」が可能であると言う人がいるのならばそれは詐欺師だ。そんなことが書いてある本は信用できない。そんなことができるのならば、それはもう体系化されていて、指導者の教育メニューや指導書に記載されている。つまり学習できる。学習できない自分に自分で気付き、そこからダイアモンドを得る。これが自己啓発だ。

たとえば「7つの習慣」だ。これは、自己啓発書だ。つまり、「ある人が成功したお話」という伝記的な読み方をすべきだ。もしかしたら人生のどこかで書いてあったことが腑に落ちるときがくるかもしれないが、腑に落ちていないならばそれはただの記号だ。なるほど、こうやって成功した人がいるんだね、と。

7つの習慣だけでなく、たとえば松下幸之助の著書、本田宗一郎の伝記、スティーブ・ジョブズのスピーチなど、たくさんの人の成功談を読んで、なにか共通点を見つけるかもしれない。

どんなに感動するように書かれていようと、どんなに一般化されていようと、書いてあることを身に付けることはできないし、あなたが何をどう身に付けるかは、あなた自身の個人的なことで、一般化できないのではないか。だから、成功するか失敗するかわからない努力を積み重ねながら同時に考えていく、これしか方法はないと思うわけです。目標をつくって成功するために自己啓発書を使うのは、意味がないのです。自己啓発書が大切にされるのは、成功に向かって走っている人にとって心に響く金言が、もしかしたらあるかもしれないということです。

自己啓発書の目標設定

「水泳がうまくなるための7つの物事の考え方」という本があるとする。
この本を手にするとしたら、まず読者であるあなたは、上手に泳げるようになりたいという、著者と共通の「目標」を持っているはずだ。

ビリヤードが上手くなりたいのに、ダーツの教室に通う人はいない。

そこで疑問。
7つの習慣は、「何を」成功に導く本なのだろうか?
そもそも、何かを導く本であるのか?

あなたはどうして、この本を読むのか?

目標の無い人に「まず目標をつくりましょう」と言ってできるものではない。
目標が異なる人に「この目標に向かってこうしましょう」と言うのも意味がない。

自己啓発書には想定している読者がいる。著者と読者が同じ目標を念頭に置いている必要がある。それでも書いてあることが役に立つかどうかは分からない。ましてや著者の書いたことが信頼できるのかどうかもわからない。多くの人が読んでいるから信頼できる?

そんな状態で「パラダイム」「自立」「主体性」「目的」「優先度付け」「信頼関係」「相乗効果」「インサイド・アウト」、これらのキーワードを押し付けられても無意味だと思いませんか。

自己啓発は人生のロードマップではない

自己啓発は、砂をふるい落とし、ダイヤモンドを拾う作業だ。

人生の目標ややミッション・ステートメントを作ることは自己啓発ではない。

成功するために、やる。
そこには、自分が曲げることができない信念がある。それがミッション・ステートメントであり、ミッション・ステートメントなんて言葉は要らない。

嘘っぱちのセミナーや嘘っぱちの自己啓発書には価値がない。
まずは自分の心を問いただすこと。本は要らない。

将棋には棋譜というものがある。
過去に行われた将棋の指しかたの膨大なデータベースだ。
この棋譜データベースを効率的に検索し、より評価の高い棋譜を採用して将棋を進める。こうして強くなったのが現在のコンピューター将棋だ。いまや電王戦で人間を凌駕しつつある。

しかし今のコンピューターには、新しい棋譜をつくることができない。
勝つことに命を懸けている棋士は、誰も踏み入れたことのない新しい道を探し続けている。その過程で、ミッション・ステートメントは自然発生すると思いませんか。

すべての可能性を馬鹿みたいに総当りでやってたら、コンピューターですら演算能力が足りなくなる。そこには、より良い選択をするためのノウハウがあり、さらに良いものを生み出す可能性がある。それを個人的に体系化したものがミッション・ステートメントとして現れるのではないか。人生における地図。

自己啓発、つまり自分自身の精神的/心理的な癖を見抜くこと。これによって、自分についてより深く、正確に、客観的な評価をすることができるようになっていく。正しい評価ができれば、物事に優先順位をつけていくことができる。

それではなぜ、自らをより深く理解し、優先順位をつける必要があるのか。

それは特定の目標を強制するためではない。

自分自身が後悔しない生き方をするためだと思っている。

人は本気で自分に問わなければ、自分が何をしたいのかもわからない。
それは地球上のあらゆる生き物の中で人間だけが考えなければならないことだから、仕方がない。生き物は本来、そんなこと考えて生きるようにはできていないのだ。

自己啓発はマインドコントロール

多くの人にとって「マインドコントロール」という言葉にはマイナスイメージがあるかと思うが、直訳すると「精神や心を制御する」ことだ。

他人を制御するばかりがマインドコントロールではない。自発的に、自分に対して行うこともある。それが目的を達成するための助けになるならば。

いまここで説明したいことは、ブレインコントロールと書いたほうが的確かもしれない。

鍛錬を重ねることにより、自分を発見していく。それは自身の内なる光で、それをもって人は変化していく。
何度も何度もフォームの練習を重ねて、あるとき突然、自分の身体の動きが三次元的に見えてくる。この成功した時の脳の作用が刻み込まれ、次からはそれが簡単にできるようになる。脳を改革していく。

これは自分自身に対するマインドコントロール。

記憶のどこかにある、間違ったフォーム。性格の歪みの原因となる記憶。
失敗を導きやすい癖。これらに気付き、解放していく。

これもマインドコントロール。

そんなことのために、人は危険を犯してでも自己啓発をする。

自己啓発の利用上の注意

自己啓発というアイコンは、善意の者にも悪意の者にも利用可能。瞑想、ヨガ、宗教、書籍、セミナー、学習会、ネットワークビジネスなど、様々な形をとる「自己啓発」は、相手の行動や考え方に強い影響を与えることができる。そのため総じて扱いが非常に難しいものであるのにもかかわらず、自己啓発は安易に使われている。

自己啓発のエイリアスは、マインドコントロール。

自己啓発は、方法論ではないのだ。考え方自体を変えていくことだから。方法論は、ガイドブックや参考書を読めばいい。指導者の言うとおりにすればいい。

自分自身の根本的な考え方の癖を見抜き、それを変えていくためには、強い力が必要だ。それをするためにあるのが、マインドコントロールだ。

マインドコントロールをするためには、自己をリセットし、限りなく自然な状態にする必要がある。受けいられれる状態にするということだ。
そのために滝に打たれたり瞑想したり生き埋めの修行をしたり頭が空っぽになるまで身体を酷使したりする。

このリセットされた状態こそ、誤った方向に進む可能性のある大変危険な状態だ。他人の思い通りにされる恐れがある。

そこで不適切な処理をすると、心のどこかに歪みが生じる。
取り返しのつかないことになる可能性がある。

そのため、まず自己啓発と言葉にする前に、あなたは本当にそのリスクを負ってまでそれを行う必要があるのか、よく考えたほうがいい。

あなたにとって成功とは何か?考えてみてください。
やるべきこと。答えはあなたの心の中にあるはずだ。
いまの生活の制約にとらわれずに、考えたほうがいい。(自戒の意味も込めて)
成功の定義があいまいなら、まずはそれをよく考えたほうがいいと思います。
都合よく湧いてくるものではないので。

成功の定義

古代ギリシャのエペイロスの地にピュロス(前二九七―前二七二)という王がいました。この王はイタリアに遠征することを考えていましたが、その遠征を思いとどまらせようと思って家臣がこんなふうに言いました。
「王さま、イタリアに遠征してローマ人に勝ったら、次にはどうなさいますか?」
「次にはイタリア全土を征服する」
「その次は……?」
「その次はシチリアを征服する」
「そして、その次は?」
「リビアやカルタゴじゃな…」
「それらを全部征服し終わったあとは、王さまはどうされるおつもりですか?」
「そのあとは暇ができる。そうすると、ゆっくり宴会でも開いて楽しむこととしょう」
そこで家臣が言いました。
「王さま、宴会をやって楽しくやるのは、いま、ここでできることではありませんか。何も苦労して戦争などやる必要はありませんよ」

次は有名な「メキシコ人の漁師のコピペ」。おそらく上の話の現代風アレンジだ。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。

すると漁師は「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。

旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

アイデンティティの多様性。人生の羅針盤の必要性。
自己啓発書にもセミナーにも、答えはない。

自己啓発が必要だと思ったら自分で切り拓け

個人的な意見として、自己啓発を安全に行うおそらく唯一の方法は、手段を自発的に選択し、実行することだ。つまり、このブログでは、紹介はしても押し付けない。人によって必要なものは違うから。

自己啓発書や自己啓発セミナーには強制力というか、強いエネルギーがある。読者に影響を与えやすい。そのように作られているからだ。多くの人がバイブルにしている理由はそこだ。自己啓発書は書き方ひとつで簡単に著者の考え方を読者に押し付けることができるし、あるいはこの本を使って自己啓発セミナーを行えば、開催者の思惑通りに話を進めることができる可能性がある。そういった罠を避けるためには、それこそパラダイム・シフトが必要なのだ。複眼的思考法ともいう。

それができない人が読んだらどうなるか?

また、7つの習慣には「自分が教わるのではなく教える立場として読みましょう」といった記述がある。これを邪推すると「どんどん伝導して本や関連グッズの売上に貢献してください」とも取れる。考えすぎですか?
ちなみにフランクリン・コヴィー・ジャパンという会社は契約社員を含む社員数が62名で、資本金は2億6千万円もある。売上は非公開。

自己啓発の危険性を共有したい

ここまで書いてきて、僕がアンチ自己啓発かというと、そうではない。

「7つの習慣」のほかにも「原因と結果の法則」など、現代のバイブル的な自己啓発書はたくさんある。我が家にだって本棚が1本いっぱいになるほどあるし、スタバでは云々とか竿竹屋がどうしたとか大きく考えることが何だとか、いろいろ読んだ。決して読まずにこうした話を書いているわけではない。

 

理髪店での様々な出会い

身の回りに理美容業界の縁が多い。妹、義弟、旧い友人。それは、父が主に理美容業界向けの経営コンサルタントをしていたからで、幼いころから理美容店、理美容関連メーカーの人たちに可愛がってもらっていた。

優れた理容師、美容師になるためには、中卒で専門学校に行くのが最強だ。現場で仕事をしながら通信教育を受けるならなお良い。

尊敬してやまない我が義弟がまさにそれで、同い年なのに職歴は既に25年もある。腕は確かだし、最新の流行にも敏感で、なにしろ信頼できる率直な性格がある。そんな義弟と結婚した自慢の妹は、高校卒業と同時に理容店に就職して通信教育で理容師免許を取り、小学生の頃からなりたがっていた理容師になった。初志貫徹にもほどがある。

そんな環境にいたもんだから、父の紹介で床屋でバイトしたり、一時は本気で免許を取る前提で働かせてもらってたこともある。(色々あって、ならなかったけど)

床屋って不思議な場所だ。人生の交差点のような場所で、様々な客がくる。

そこで働くスタッフにも、いろんな人がいる。

多様性がある。いろんな問題や悩みを抱えて、うまく生きることができていない人もたくさんいる。

多様性のある人材を一人前に育てる

理美容室には、金八先生的な経営者が少なくない。人材をどのようにうまく一人前に育て上げていくか常に考えてて、問題があれば正面から受け止めて、社会人としても理美容師としても恥ずかしくない大人になってもらうことを大切に考えている。(もちろんドライな経営者もたくさんいるんだけど、それでも雇った人材には一人前になってもらわないと困るのは同じだ)

  1. いちばん長くいた床屋のマスターはこれまた暴走族上がりの、若いころ多々の苦労をしてきた懐の深いダンディなおじさんで、このマスターが雇う人材は一癖も二癖もある人たちばかりだった。そんな店のスタッフと送る毎日はまるで「北の国から」のようにドラマチックだった。
  2. 父を訪ねて自宅に来る経営者がたくさんいた。彼らは深夜までよくしゃべる。また、父に連れられて訪問した床屋もたくさんあるし、地方にいる床屋さんに誘われて家族旅行もたまにしてた。北海道から岡山まで、いろんな地域の床屋さんと、そこで働いている同年代のスタッフたちと知り合った。
  3. 父の会社で開催していたセミナーに参加した。それは経営者向けのセミナーではなく、自己啓発のセミナーだ。参加者は理美容師ばかり。

人材育成と自己啓発セミナー

父とは15年以上顔を合わせていないが、北は北海道、南は鹿児島まで、何百人もの理美容師さんが父の自己啓発セミナーを受けていた。

父はいつも「自己啓発セミナー」と「洗脳」は紙一重であると言っていた。はじめはそれがどういう意味なのかよくわからなかったけど、自分が実際にセミナーに参加して初めて理解した。当時、父は僕がセミナーに参加することを望んでいなかった。なぜならこのセミナーというのは自分の過去にさかのぼり様々な感情や正直な思いをぶつけあうもので、講師と参加者が親子であることがセミナー全体の失敗を招く原因になる可能性があったからだ。

セミナーは3日間、貸し切りの宿泊施設に泊まりこみで行われる。期間中は外部との交流を遮断されるという、なんとも不穏なルールがあった。当時は携帯電話なんて無かったからそれも簡単だったんだけどね。

そこで何があったかというと、一言で書くと凄まじい経験をした。
詐欺師や新興宗教団体やねずみ講などが、どのようにマインドコントロールするのか、身をもって理解した。そのセミナーの目的は人を思い通りにコントロールすることではないけど、どのような目的であれ人の何かを変えてしまう、もしくは変えるきっかけを作ってしまうことには違いがない。だからこのような前向き(?)なセミナーと、悪意のあるマインドコントロールの違いは何かと問われると、目的が違うというだけで他はまったく同じものだと言わざるを得ない。

「カウンセリング」はだいぶ身近な存在でみんな気軽に受けるけど、カウンセラーにはマインドコントロールのスキルは必要ない。

このセミナーで体験したのは、カウンセリングとか相談室とか、そういうレベルのものとは精神レベルが圧倒的に違う、全く異質の世界だった。

セミナーでは共同作業やゲームなどを通じ、まずお互いの心を開きあう。このゲームはこの先の進行のためによく考えられたもので、中にはちょっと変わったものもあったけど、椅子取りゲームのようなものからカードを使ったゲームなど普通のゲームが中心だ。

やがて和気あいあいとなり、心の壁が少し取り除かれる。周到に用意されたプログラムで、心が開いていく。最終的には、普段の生活ではありえないような完全にオープンな状態になる。このオープンさは、親兄弟、恋人、配偶者など、いままで誰に対しても感じたことがないほど強烈なオープンさだ。おそらく日常生活であれほどのオープンな気分になることは不可能で、人為的なものが必要だと思う。
洗脳、刷り込み、マインドコントロールといった類のものは、このような精神状態に持っていくのだろう。

オープンになったら、今度は参加者それぞれの抱えている問題がいろいろ噴出してくるプログラムになる。参加者全員の問題を参加者全員で聞いて、考える。話し合う。

オープン状態の人はなんでも受け入れられるし、誰にも見せたくないものを見せることもできる。みんなが隠し持っていた素敵な性格や考えをたくさん見ることになるし、心身の奥底に溜まった膿のような患部も見せつけられる。

経営者の50代のおじさんが、床に転がって赤ちゃん言葉で泣き叫んだ。おとなしくてマジメな10代の女の子が、想像を絶する過去を赤裸々に語った。みんな、処理できずに引き出しの奥にしまっておいた感情があふれだして、そこにいた全員が、すべてを受け入れる。
解決策なんて当然ないんだけど、人が抱えるほとんどの過去の問題については、誰かに受け入れられることが大切だったりする。受容されているという実感が、膿がスッと消していく。その現場をいくつも目にした。
ほとんどの問題の原因は、自分のレンズだということがよくわかる。
激烈なパラダイムシフトを体験する。

そして自分の番がやってきた。両親との確執があった僕は他の参加者と違い、本人を目の前にしてどこまで話すことができるか不安だったが、気付いたときには父子ともにボロボロ泣いてて、「その思いをすべて込めて一発殴れ、俺も殴り返すから」といわれてフルパワーで殴りあった(そして父は骨折した)。

父との話だけでなく、いままで自分が本当はリリースしてあげてもいいのに固執してきたこと、足りなかったこと、強いところ、弱いところ、いろんな情報がドバーっと流れこんできた。

いちばんの収穫は、それらを全部ひっくるめたものが自分であり、自分が他人に許容される人間であるという認識ができて、そして自分で自分を赦すことができたことだ。

その後の爽快感ったらもう驚くほどで、つい数分前に生まれたばかりです!的な気分だ。世の中にこんな爽快な気分が存在したのか!と、そのときはもうスッキリ感と幸福感にあふれてて、何も疑うこともないし、前途洋洋だった。

セミナーの開催地もそのへん考えられていて、その新鮮な気分で外に出れば、湖畔の高台ならではの爽やかでおいしい空気が待ち受けている。眼下には美しい景色が広がっている。

このように気持ちが根本からリセットされたときには注意が必要だ。
そのときに受け取ったもので、その先の考え方が変わるから、自分で考える時間をとらないといけない。

頭がよくまわる。クリアに物事を考えられるから、自分が今一番したいことは何か、すべきことが何なのか、心の底から湧いてくる。セミナーを受ける前には自分を見失ってて、何をすべきか自分の心の中になんてあるわけがないと思っていたのに。

第2の人生の始まりだ、と本気で思ったよ。

セミナーが終わった後も、血縁者のような深い関係を続けるメンバーが少なくないらしい。そりゃそうだよなと思う。あれだけ自分をさらけ出して受け入れてもらったんだから、ある意味、親兄弟以上の理解者だ。(と本人は思う)
老若男女関係なく、なんというか愛情のようなものが芽生えるんだよね。
この相手がもし、悪意のある人だったら……怖いね。某団体も、このようにして人の心を捉えていったのだろう。

セミナーを受けると、いままで知らなかった人たちに対してこんな感情を抱くことができるんだったら、世界中にそれを広げたらいいじゃん、って気持ちになる。

これってジョンレノンが目指していたものだよね?
イマジン オール ザ ピープル
シェアリング オール ザ ワールド

彼はLSDや大麻を使っていたが、そのような薬物を使わずとも、人間の精神はここまでコントロールできてしまうのだ。

自己啓発の難しさ

父が常に悩んでいたのは、このようなセミナーによって人が本当に幸せになっているのかといった疑問と、人の人生に大きな影響を与えるこのようなセミナーを主催する責任を負うことができるのかどうかということだった。

前述したように、マインドコントロールは悪用できる。
自己啓発という言葉を軽々しく使うのは危険だ。

僕が経験したように、周到に用意されたセミナーであれば、ほとんどの人はコントロールされると思う。

周到に用意された自己啓発書は、セミナーのような直接的なマインドコントロールには遠く及ばないけれど、それなりの誘導力がある。
著者が誘導したい方向に向かわせることができる、そんな力の強い書籍はたくさんある。

僕個人の考えとしては、そのようなパワーのある本を読んで「感動した」とか「考えさせられることがあった」とか、そんな単純な理由でそれを人に押し付けてはいけないと思う。
勧めるだけなら断ることができるけど、断ることができないパワーをもって押し付けるのは、めちゃめちゃ危険だと思う。
だから自己啓発セミナーや自己啓発勉強会といったものは、命を預けられるくらい心から信頼できるプロにやってもらえるのでない限り、参加したくないし、開催もしたくない。主張はしても、押し付けはしたくない。

僕がここで主張したような危険性に気付くことができる人・企業・団体はとても少ないだろう。レアな経験をしたと思っている。

また、自己啓発書に書いてある内容というのはいくらでも都合の良いように受け取る・受け取らせることができる点にも注意しなければならないと思う。個人の向上心を煽るメッセージも、受け止め方によっては会社が個人に対して責任を押し付けるための免罪符にもなりかねない。いわゆるブラック企業と呼ばれる企業の多くは、自己啓発書や社訓をうまく活用して、マインドコントロールに近い状態(もしくはそのもの)を行っている。

そうじゃなきゃ、死んでしまうほどの激務を最低賃金でやってて、どうして辞めないのですか。

 

自己啓発は何を与えてくれるのか

「目標を立てて頑張りましょう」……いい言葉だね。

自己啓発の本を読んだりセミナーを受けたりしたあと「こんな努力をしなければ」という感想も、よく耳にする。

でもそれって間違っていない?
努力って、誰かに教えてもらってするものじゃないよね?
努力って、どこかに向かうためのものだよね?
どこに向かうのかは、自分で決めることだよね?

自分が何をするか
どこに向かうのか
死生観と価値観
それに基づく自分自身の「ミッション・ステートメント」
それを守ること
自分の生き方

しかしそれは数ある手段のうち誰かがうまくいったことでしかなくて、
絶対的な真理ではない。
それなのに、同じやり方を押し付けるなんてどうかしてる。

「難しい言葉で、理解した気になる」
「難しい言葉で、理解を妨げられる」

生きるとはなにか

かつて幼稚園児だった妹が教わってきたこんな歌。

豚が~道を~行くよ~
ブンチャッチャ~ ブンチャッチャ~
向こうから車が来るよ〜
ブンチャッチャ~ ブンチャッチャ~
豚は〜死ぬのがいやだから〜
車をよけて〜行くよ〜
ブンチャッチャ~ ブンチャッチャ~

2番と3番もあって、たしか2番は豚が空を行き、飛行機をよける。3番は海を行ってお船をよける。

歌詞の無意味さ。脳天気でアホみたいな歌詞だけど、アホじゃないよねこれ。

限りなくシンプルに生きている豚の話だ。
細かいことはどーでもよくて、生きるために行動している。

ところが不思議なことに、自分も含めて人間にはいろいろ生きる理由が必要なようだ。
この「生きる理由」について考えてみると、冒頭に書いた「多様性」の広い世界に足を踏み入れてしまうわけですね。

まず、生きるとはどういうことなのか?

豚は死ぬのが嫌だから車をよけて行くのだ。
我が家の愛犬を例にしてみても、奴らはやりたくないことは絶対にしないし、完全に自己中心的だ。譲り合いなんてものはおそらく母と子の関係にしか存在しないのではないか。(父子にもあるかもしれないが)まずは自己防衛。自分が生きることが最優先。

しかし人間は嫌なことをすることがあるし、ときにはまったく血縁のない人のために自らの命を犠牲にすることさえある。
なぜだ?

報酬システム

パブロフが行なった実験は、以下のようなものである。
イヌにメトロノーム(ベル・ホイッスル・手拍子・足踏みと言う説もある)を聞かせる。
イヌにえさを与える。イヌはえさを食べながらつばを出す。
これを繰り返す。(上記の二つのプロセスを条件付けという)
すると、イヌはメトロノームの音を聞いただけで、唾液を出すようになる。
これがいわゆる学習と異なるのは、つばの分泌が無意識的で自動的な調節に依存している点である。

犬は賢い。教えたことを覚える。報酬がある場合は。
「おすわり」「お手」「トイレ」「ハウス」などの基本的なしつけから、アジリティのチャンピオン犬や警察犬や盲導犬などの高度な訓練に至るまで、報酬が必要だ。
すべての犬は報酬のためだけに、やりたくないことをやるのだ。ローン・レンジャーのトントと同じである。報酬に見合った忠誠。等価交換。

犬は、母性による行動をとることがある。
親犬は子のために命をかける。
これは報酬を無視した特別ルールか?

そんなことはない。
親犬にとって、子孫の存続は最大の喜びであり、使命であるから、そのために自分が命を懸けるだけの価値があると本能に刷り込まれている。
子を守る親に本来は駆け引きなどないわけで、我が子を守り、一人前にするためにとる行動が、すべて義務感によるものであるとは考えにくい。嫌なもんは嫌なんだから、もし子育てが嫌だったら育児放棄するのだ。育児するということは、嫌じゃないのだ。そこには精神的な報酬もあるのかもしれないし、子の未来を予見する能力すらあるのかもしれない。
しかし「私は親に優しく育てられたから、我が子にも同じように接してやろう」なんて考えは絶対にない。親子の報酬システムは、世代をまたぐことはない。だってそうでしょう。生まれて2週間で母犬から引き離されてペットショップに連行され、母犬の愛情を十分に得られなかった子犬だって、親になればきちんと子育てする。
あんまり早く引き離されると情緒に問題が出やすいとか言われるけど、それは親や兄弟との社会的な関わりの中で学ぶはずだったルールを学ぶ機会を失うからだ。それは飼い主が親兄弟に代わってやればいい。

また、犬は社会性による行動をとることがある。
犬にはオオカミの血が流れていて、集団行動する習性が残っている。群れのボスと認めた相手に対しては服従する。
犬が「自分は人間よりも偉い」と判断してしまうと、格下の人の言うことは絶対に聞かないばかりか、犬が人に命令する。

(散歩に連れて行けワンワン!メシよこせワンワン!そこ邪魔だどけワンワン!)

このような状態を「アルファシンドローム(権勢症候群)」と呼ぶんだけど、犬に見下される原因を作るのは常に人間であるから、まことに勝手な話だ。

犬の上下関係はたいへん合理的だ。
ふんぞりかえって偉そうにしているボスになればラクだから権勢になるのではない。リーダーがいなかったら誰かがリーダーをやらなければ群れが生き残れないから、一番頼れる奴がリーダー(ボス)を引き受ける。自分よりも強くて頼りになるボスがいるならば、そのボスに従う。
このような群れのシステム(ヒエラルキー)を運用することで、外敵から身を守るため、食べ物を確保するため、子孫を残すためなど、様々な面で利点が生じる。人がムラを作って集団生活を始めたのと同じ理由だ。
だからそこにはきちんと、報酬システムがある。群れのルールに従うことで、それに見合った「安全」などの報酬がある。

ここまでの話の流れでは、努力というものは報酬を得るための行動であるように見える。
人間の場合も豚や犬と同じなのだろうか?

まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。
ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。
のちのパチスロである

努力とはなにか?

ヤンキースのイチロー選手。誰もが認めるスーパースター。
4千本の安打を生んだのは、まるで真剣を扱うかのような正確無比なバットさばき。塁に出ればチャンスを逃さず盗塁を成功させる瞬発力。そして高い守備力、強肩。

そんなスーパースターと呼ばれる選手が40歳を迎え、苦悩に満ちたシーズンを送っていたそうだ。

NHKの人気番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」でイチロー選手の言ったこと:

精神状態の不安定さはありました。シーズンの途中からは特にそうだった。不安定さは、間違いなくあった。そういう自分が存在したんですけど。
気持ちがそういう状態のとき、普段続けていることを放棄したくなる。
まあ、言ってみたら、試合前にするストレッチだったり、いろんな準備がありますよね。それを、なんとなくこう、やりたくない瞬間が現れるんですよ。
でも、それをやらないと、僕を支えてきた僕が崩壊してしまう。と想像したので、そこだけは続けたということですよね。
それを放棄すると、今までやって来たことや、やってきた自分さえも、僕自身が否定しなくてはいけなくなるので、それはやってはいけないことだし。
それをやってしまうと、僕を真面目に見続けて来てくれた人たちの思いを完全に踏みにじることになるので。見えてないですけど、僕の中ではそうなるので、それは頑張りましたね。
これが、努力なんじゃないかなと思いますね。

イチロー選手にとって「努力」とは、確かに嫌なこと、やりたくないことをやるということになる。しかし「やりたくないことをやる」という部分だけにフォーカスしてしまうと、このイチロー選手の言葉を履き違えてしまうのではないか。
やりたくないことをやることで、自分のアイデンティティを守る。ずれそうになった本来あるべき軌道に戻してやる。たどり着きたい場所へまた歩き出す。

そんな感じじゃないのかな。

日経新聞より:

努力をすれば報われると本人が思っているとしたら残念だ。
それは自分以外の第三者が思うこと。

もっと言うなら、本人が努力だと認識しているような努力ではなく、第三者が見ていると努力に見えるが本人にとっては全くそうでない、という状態になくてはならないのではないか。

イチロー選手にとって、完全なコンディションを保つために日々行うトレーニングや生活習慣のすべては、努力ではなく、自分が到達したい場所へ行くために行う当然のことだった。

しかしスランプに陥り精神的に不安定な状態になったイチロー選手は、日々の準備に正面から向き合うことが辛くなった。しかしそれでも、常に万全なコンディションにしておくことが、イチローがイチローであり続けるために必要なことだと気付いた。

イチロー選手にとって、おそらく人生で初めて出てきた「努力」という言葉は、そんな状況が生み出したのだった。

再び問う、努力とはなにか?

イチロー選手も、努力している。僕のような凡人には到底真似ができないほどのストイックな準備、それをイチロー選手は努力だとも認識せず、そのさらに上にある苦しみを乗り越えることを「努力」と称した。
イチロー選手のような高い場所にいる人でさえ、頂点は見えず遠いもので、努力が必要になることがあるということは理解した。

屈辱が自分を支えてくれる

4,000本安打を達成した10日後に、イチロー選手は9-1で試合が決まった8回裏に代打で出場。前のバッターはメジャーリーグで初ヒットを打ったルーキー。イチロー選手は平凡なライトフライ。イチロー選手はそのシーンが屈辱だったと語る:

あの屈辱は、一生忘れない。忘れてはいけないこと。悔しかったんですよね。
いままでとは違う意味で、いままでで一番の結果を出したい打席でした。
あのことは、未来の僕を支えていくだろうなとは思ったんですよね。
(中略)
いままでの自分は、いい結果、いいことだけで支えられてきたわけではない。
それなりの屈辱が自分を支えてきている。現在もそうなんですけど。
別に痛みはないですけど、心は習慣的に痛みを覚えるじゃないですか。いままでそういうことによって自分を支えて来たし、これからもそうであると思うので。
現在の僕からみたら、あの経験は素晴らしい瞬間だったとと思ってます。

人はこれを「バネにする」という言い方もする。「失敗」や「屈辱」はバネになるらしい。それは、失敗したことにより他人から責任を問われるというよりも、誰でもない自分自身に対して問う責任ではないか。だからこそ、逃げることはできない。痛みを背負いながら無かったことにしていくか、それとも立ち向かうかのどちらかだろう。

縮んだバネが勢い良く伸びるように、イチロー選手は誤魔化すことなく真正面からそのバネの力を使った。勇気の必要なことだ。その勇気を行動に移し、積み重ねると、イチロー選手のようになれるかもしれない。

他所様よりも感情豊かな(笑)僕は、日々感じ取るものをなるべく平穏に、フラットに、なるべくスパイクのないように処理しようとしてきた。人は、笑いや愛情や尊敬などの「正の感情」を尊ぶ。それはたいへん居心地が良いし、みんなが幸せな気持ちになれる。しかし同時に、怒りや憤りや悲しみなどの「負の感情」も絶対に必要なものなのだ。陰があるから、陽が明るい。逆もまた真なり。

努力というものは、負の感情から正の感情へシフトする流れの中で発生する、人間が持つ根源的なエネルギーのようなものじゃないだろうか。

体育会系のガチでツライのガマンしてどうにかしろ日本バンザイ的なものは、イコール努力ではない。努力はマイナスからプラスに転じて目標を達成する最善の方法を探りながらも、前に進み続けること。そしてそれは、誰に強制されるものでもない、自分のためにやることだ。

最終的な形はない

20年、毎日プレーするようになってから言えることは、最終的な形はないということですね。
これがまた残酷なことです。
打撃の技術として、最終形がないということ。
最終的な頂点が無いからこそ、常に前に進もうとする意欲が生まれているとも言えるんですけど。
(中略)
はっきりしているのは、近道はないということですね。
遠回り。
あとで考えると、これ遠回りだったな、省けたら良かったな、って思う事は確かにあります。
でもそれは一番近いんです。

人間関係も環境も、どんどん変わっていく。既存のものは徹底的に研究され、ライバルはさらに強くなる。科学技術の発達により、その変化の速度はどんどん上がっている(ように見える)。そんな馬の目を抜くような競争社会の中で、ずっと変わらず同じことを続けていて、成功につながるだろうか。

だからこそ努力というものは、考えるだけでもいけない。考えなしにがむしゃらにやってもいけない。頭も体もフル回転させる必要があるのだろう。
そしてそれをやってのけるのは超人的な我慢強や忍耐力ではなく、高い場所への憧れと、そこを目指している自分自身への確かな手応えだ。目標地点は誰かにセットしてもらうものでもないし、セットのしかたを誰かに習うものでもないだろう。目標が定まっていたら、最善の方法で最大限の努力をするということは、イチロー選手のように「当たり前」になるのではないだろうか。

好きなことをやっていると、時を忘れて没頭してしまう。それが探究心、集中力、継続力のもと。こればかりは、誰からも教えていただくことができない。

そして、人間が人間らしくある理由ではないか。

すくなくとも我が家の愛犬は、数年後にこうなりたいという目標は持っていないと思う……。

人間もまた同じルールの上にいる

人間は、努力と報酬が等価でなくても前に進むことができるように見える。
でもそれは長続きしない。

イチロー選手の話をよく反芻してみて僕が受け止めたものはこうだ。
やはりイチロー選手といえども、努力と報酬の等価交換のシステム、ルールに従って行動しているのだ。
人間のすごいところは、本能に刷り込まれていないようなことや、複雑な構造をとった、一見等価なのかそうでないのかわからないようなことに対しても、ときには冷静な分析力、長年培われた知識による解析力、そして直感、これらをフル活用して、即座に判断し、バランスをとりながら前に進むことができるということだ。

それは、種籾を食べずに畑に撒くことに似ていると思った。

人が間違えやすいのは、あまりにも複雑な社会構造のために、難解な報酬システムがたくさん増えてしまったためだ。複雑化した社会において自分ですべてを判断することが難しくなり、人は判断するための羅針盤(あるいはガイドブック)を必要とする。世の中には学校、本、宗教、インターネット、親、友人など、さまざまな羅針盤がある。

複雑な構造だけに、騙しやすくもあり、騙されやすくもある。
いちばんこわいのは、他人に騙されることではなく、自分が決断した選択肢に裏切られることだ。
しかし、自分に裏切られても、それをバネにして跳ね返ることができるかどうか。
バネをきかせた先に何があるのか、見えているかどうか。

それは、努力に見合った報酬が得られるものなのか。

犠牲と無駄の勘違い

報酬が得られなくても人のためになることをする。
……崇高なようにみえるけど、これは偽善だ。できないことだ。

ガンジーやナイチンゲールには報酬が無かったのか?

キリストといえば無償の愛だ。隣人を愛しなさい。
それは、セミナーを受けた僕が感じた「世界中の人とわかりあいたい」というところが遠い遠いゴールとしてあるんだと思う。

人間は果たして同じことができるのか?

何度も書くけど、「自己犠牲」には報酬がある。
犠牲になったことによって救われるモノがあるということ。それが報酬だ。

「無償奉仕」にだって報酬はあるよね。

報酬のないものとは、たとえば幸せで満足な人生を送っているのに今すぐ死ねとか、サハラ砂漠で穴を掘れとか、そういった類のものだ。
仏教でよく言われる地獄で課せられる罰みたいなもんだ。

そのへん誤解して、愛を持って乗り越えましょうとか、感謝の心でなんとかなるとか、それは間違ってる。

人間社会には想像を絶する複雑さがある。そんななかで、愛を与えればどこかで報酬がはたらくのだ。情けは人のためならず。ちなみに昔の日本に「愛」という概念は無かったそうです。

感謝の心が大切なのは、感謝して感謝されることにより、犬が群れのルールを守ることと似ている、スムースで安定した社会を築くことができるという報酬があるからでしょう。

何も考えずに突き進んでいるように見えて、実は明確なゴールに向かって突き進んでいる人生もある。

逆に、一見したら高尚な目標があるように見えて、実は中身がスッカラカンで羅針盤はぐるぐる回って翻弄されている、なんてこともある。

努力が先に来るのではない。目的が先にあり、目標を設定し、手段が決まる。
あとは、やるかやらないか、それだけだ。

努力という言葉は、必要ないんじゃないか?

褒めることと甘やかすことの違い

飼い主の思い通りにならない犬を叱ってもろくなことにならない。

褒めること(愛情を表現すること)と、食べ物をあげること。これ大事で、犬は叱っても伸びない。褒めて伸ばす。

はい、そこで疑問。
これって人間の場合はどうなんだ?

善悪の区別もできない幼児を叱っても意味がない。
やはり褒めて、愛情を注いで、物理的にも保護して(食べ物を与え、生活の世話をする)、そこで信頼関係が生まれ、子供は育つ。

「叱って伸ばすのではなく褒めて伸ばそう!」なんてどっかで聞いたことがある言葉だけど、そんなの当然だろって話だ。

愛情ってなんだ?

  • 自分を愛する(自己防衛)
  • 身近な人を愛する(強調と依存)
  • 身代わりになる。(利他主義:自分の命を対価にできる)
  • 国を守るために戦う。(イデオロギーを大切にする)
  • ・・・

やはり見合ったものが必要なのか?

努力=自虐ではない

努力すれば報われる、とプロのスポーツ選手やビジネスの成功者は言う。
これを曲解してはいけない。
努力とは、それに値すると自分が思うことに対して最大限のエネルギーを注ぐことだ。
情熱を傾けるものだ。

やりたくないことを我慢してやることではない。
誰かに負けないことはモチベーションにはなるが、誰かに勝つことは目的ではない。
やりたいことを続けるということは、自分のアイデンティティを守るということだ。
だから勝つべき相手は自分自身だ。

自分に嘘をついていたら成功なんてしない。
成功したいと心から思えることに対して命を注ぐのだ。
そして成功とは必ずしも個人が「手に入れる」ものではなくて、世の中に「もたらす」可能性もあるという考え方のほうが良いと思った。
決して利己的なものではない。

人はなぜ自分を痛めつけ、追い詰めるのか。

イチロー選手の「ストイックさ」「禁欲的」と評価される部分は、本当は何なのか。
それとは別に、報酬がないのに自らを痛めつける人がいるのはなぜなのか。
理由もよくわからず自分を痛めつけることをよしとする社会があるのはなぜなのか。
向上心とはなにか。
自虐と努力と苦痛と報酬の関係はなにか。

生きることは楽しいはず

「私は○○をしなければならない」
「○○が足りない」

生きるということはそんなにも厳しいものであるのか。

おそらく、人が増えすぎた。本来あるべき人口をはるかに超えて、自然のバランスが崩れてしまってもそれを技術でなんとかしようとして、経済システムや利権やプライドいろんなものがごちゃまぜになって、生きることが簡単ではなくなった。

だから、「社会の枠組み」で受容してもらえる「自分の価値」を主張しなければ「幸せ」にはなれないということになっている。

本当にそうなのか?

のほほんと生きていられるならば、競争は必要ない。
競争が無いならば、自分をライバルよりも強く磨き上げる必要はない。
つまり自己啓発は必要ないということになる。

報酬の約束されていない努力。
私の愛犬は報酬を得られなければやりたくないことをしない。
報酬があればいろんなことを覚える。

人のため、とか社会のため、とか
感謝しましょう、とか
キレイ事ばかり言ってみても、すべて裸にしてしまえばそれは
「自分のため」であることがわかる。

生きるということはそういうことだ。
自分が一番大事だからこそ生きる。努力する。
他人を慈しみなさいということは、自分も慈しんでもらえる構造を作り維持するために必要なことだ。

リソースが下回っているからこそ競争があり、
競争があるからこそ、競争しないという選択肢が生まれ、
仲間意識、信用、信頼、正義、裏切り、感謝などの概念が生まれた。

これらのことと、愛は関係がない。

愛するということは難しく考えることではない。
愛しましょうと推奨したりするものでもない。
愛は、関係性のなかで自然発生する。

努力や目標設定で愛は生まれない。

「やりたいことをやる」
これが否定される社会はいびつだと思う。

関係性というものは押し付けられるものではない。
必要だから関係性が生まれる。

努力しなければ報われない。当然だ。
でも努力したくないのならば、それには理由があるはずだ。
まわりの雑音を断ち切って、もっと自分の心の声を聞くことも大切だよ。

コメント

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