なにもかもオブラートに包んだような世界でさ、「箪笥の角に頭ぶつけるような意見出す奴は面倒でしかない」だって。そうですか、そう思うなら、それでいいよ。
調和ってものを考えることもできないでなんでも自分、自分。自分ばっかりだなって指摘すりゃ、自分のこと考えたらいけないのかって反応される。極端で0か1かしか選択肢がないような考え方にハマっちゃってるの自覚したほうがいいよって。
調和っていうのは自分のことを考えないことじゃない。自分だけよければいいってことを、調和していないって言うわけ。
自分だけよければいいなんてやり方でうまくいくなら、とっくにそうしてる。よくよく考えてみりゃ、自分だけいいなんてやり方では何も生まないし、結局そのツケは自分が将来払うことになるっていうことに対する想像力や経験が圧倒的に不足している人が多いんじゃないかって思う。平和ボケっすか?
他者を傷つけないということと表面的に合わせたフリをするってことは違うんだよ。
他人が決めたことを守る理由ばかり探すのはバカでもできる。自分がバカかどうかを決めるのは自分自身だ。疑問を持つことをやめたらただのロボットだろ。
会社や組織の在り方にもいろいろ考えさせられてる。僕にとって組織は依存対象ではなくて、自らの目的と合致した何かを実現する場所で有り続けたし、与えられる価値に対価をいただけるのは当然のことだ。そうした根源的なところのバランスが大きく崩れてしまった組織が数多くある。組織自らが、不安や恐怖の病に冒されている。
大企業などの大きな組織では、まったく意図しないまま組織が自ら意図をもって行動しているように見えることがある。人はその原因を探るが、原因はひとつではないから大抵の場合、把握しきれない。把握するためには複雑に絡み合った状況すべてを様々な角度で見る柔軟性が必要だ。
答えをひとつにしようとする人があまりにも多すぎてお話にならない。
会社が暴走しているように見えるのならば、それを伝えること。もしかしたら勘違いかもしれない。勘違いでないと思える限り、それでは変革だ。
そしてその変革に無理を感じたら、さっさと見切りをつけることだ。自分を曲げる必要はないのだ。
そういうわけで今、不惑にしてようやく本気で他人の作った組織でパフォーマンスをあげるという行為に見切りをつけることにした。
組織で貢献できる余地はたくさんあるけど、組織が能力をフル活用してくれないし、させてくれないから、世の中に与えられる変化もブレーキがかかりっぱなし。僕はもうそういうのに耐えることはやめよう。
常識的なレールからはみ出した僕のような人間が、組織社会でどこまでやれるかという実験も兼ねていた。
真実を知り、真実を定義し、より幸せな人生を切り拓くことが目的で組織というものを人生の「経験」として飛び込んだけど、あらゆる組織においてその従業員は従業することの意味すらよく考えてない人にあふれていることに愕然とした。自分が有利な立場になれれば他人はどうでもいいのか?口ではきれいごとばかり並べるけれど、結局不調和した決断を遂行することになり、それを民主主義だの多数決だのといったよくわからない理由にもならないことを並び立てて強制するような行為を僕は決してリーダーシップとして認めるわけにはいかない。そもそもすべての会社組織が民主主義だなんて誰が決めたのだ?そんなことあるわけない。
理想とする組織が実現不可能なのかどうか、作ってみようじゃないか。
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