職業選択の自由について

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卒業後の進路に悩む学生、今後のキャリアパスに悩む社会人ってたくさんいます。「転職」というものが一体どういうものなのか、僕はそこの経験が豊富にあるわけですから、そこから自分が感じ取ったり考えて至ったものを誰かの参考になるように書いておくことには意義があると思いました。

きっかけは、とあるYouTubeの動画です。雇用や給与格差などについて持論を述べている外資系会社員の方の動画ですが、彼が言いたいことはよくわかるのですが、視野がちょっと狭いと感じました。このような動画を参考にして「なるほど」と思い、将来の選択をする人がいるわけですよね。ちょっと物を申したくなります。

まず、学生が社会に出ていくということについて。お金を稼ぐということの意味について。ここには多様な価値観があります。どのような価値観をもって社会に望んでもいいわけです。そこは個人の自由が約束されている現代社会です。さらにいま、個人がますますフォーカスされていく時代において、「誰にも頼れない」状況が昔よりも増しています。たとえば僕よりも上の世代の人をみれば、大企業で労働者を保護している労働組合が機能していました。これの良し悪しを語ると長くなるのでしませんが、単純に捉えれば企業の都合だけで物事が決まっていく流れを阻止できる労働者視点のプロセスです。ところが「価値観の多様化」という名目のもと、労働者の総意が瓦解してしまい、結果的に「空飛ぶタイヤ」のような状況、つまり企業がもつサイコパス的な要素(ルール優先の大企業病)に起因する闇の部分に向き合うためには、組織としてではなく個人として立ち上がらないとどうしようもない状況です。これを生み出してしまったのが現状だと捉えています。

オープンな議論ができない組織は腐敗します。

学生が社会に出る、つまり「どこで」「なにをするか」を決断するという場面において、労働環境や賃金や福利厚生などの様々な要素はありますが、あまりにも「個のメリット」だけにフォーカスが限定されてしまっている現状を憂慮します。

法的には、義務教育である中学校を卒業したら、働くことが可能となります。健康と福祉に有害ではなく、その労働が軽易な業務であれば、例外的に、中学生については、使用者がその所轄労働基準監督署長の許可を得れば、修学時間外に許可の範囲内で働かせることはできることとされています(労基法56)が、中学卒業すればそのような制限もなく、労働できるわけです。

日本国憲法第22条第1項
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

公共の福祉とは何かについてここでは言及しませんので、興味があればお勉強してみてください。

職業選択の自由がある中で、高校や大学に進学するということは一体どういうことなのでしょうか。

高校や大学には、公私を問わず公費(税金)が投入されています。つまり日本という国家において、高校や大学というものは公費投入するだけの価値があるものだということです。当たり前じゃん! って思うかもしれませんが、しばしお付き合いください。

高校や大学に行く意義も多様化していますが、まず本質的に避けて通れないものが「学業」です。見聞や人脈を広げなくても卒業できますし、友達を増やさなくても卒業はできますが、単位を落とせば卒業できないのです。つまり高校や大学は「なにかを学ぶ場所」です。公費によるサポートが大なり小なりある環境で学ぶということは、どういうことでしょうか。

スペシャリストの育成です。特殊技能や知識がなければ成立しない仕事が世の中にはたくさんあります。弁護士や医師などはわかりやすい例ですが、大学で学んだことがまるっきり役に立たないという状況があれば、大学に行ったことについて個人的な経験としての価値はあろうけれども、社会的に価値はありません。

修学するということは、卒業後に「修学したことをどう活かすのか」と考えるのが妥当ですよね、という話です。

モラトリアムが終わらないままに社会に出る若者が当たり前のようにたくさんいる。これって悲しいことじゃないですか。

「やりたいことのために学びたいことをようやく学びきった。とうとうその学びを活用して、世の中の役に立つときがきた」
これが、就職(会社に就職する・独立して職をもつなど、広義の就職)ということですね。

プロのギタリストになりたかったらギターの演奏が上手くなる必要がある。
プロの医師になりたかったら医学を修める必要がある。

そしてプロになって、それでもなお足りない技術や知識や経験を積みながら、一流を目指す。

一流を目指す理由はなんでしょうか? という質問に対して「よりよい給料を得るため」「生活を豊かにするため」という回答が多い日本の現状から、長期にわたる文化的衰退を感じてしまいます。自分にしかできないことを目指すことを、始める前から諦めてしまっている若者が多いです。でもそれって若者だけですか? 違います。若者に夢を持たせられるような背中を見せていない、わたしたち全員の課題だと思います。

宇多田ヒカルが歌詞のなかで「将来国家公務員なんて言うな夢が無いな」と歌って盛大にバッシングされたことがありました。文章を読まずに文脈を読むことができれば、こんなことがバッシングされることはないはずです。国家公務員を否定しているのではないことは文脈から読める。それくらいの文化的素養がない現代日本に溜息が出ます。ちょうど数日前に脳科学者として有名な茂木健一郎氏がブログで発言していました、次の内容を御覧ください。

ここでいう「論理国語」にとらわれてしまっているということです。これは文脈において、「働くことの意味」についても通じる話だと思います。

上記の宇多田ヒカルの歌詞で言うならば、「将来国家公務員」を「論理国語」で捉えれば、文章の表面上しか捉えないわけですから、国家公務員を否定しているという捉え方に読めてしまうわけで、実際そういう読み方をした人が素っ頓狂な異議の声をあげて、そこに素っ頓狂なマスコミが反応したということです。コミュニケーションや文脈をあらゆる角度から照らしていくという社会的役割をもつべきマスコミ業界がこのような状況があるからこそ「日本のマスコミは終わってる」という酷評が世の中にあふれているのではないでしょうか。

この「将来国家公務員」というところで大事なのは、「将来○○」(○○に入る職業は何でもいい)を選ぶ理由のところです。そこには、国家公務員を選ぶ人の多くが「終身雇用の安心」「親方日の丸の安定性」などを選択の理由にしている現状から、そんなことを理由に職業を選ぶことに「夢がないな」と伝えたいわけです。スケープゴートにされてしまった「国家公務員」が腹を立てる気持ちもわからなくもないですが、実際、志を立てて国家公務員になっている人はそんなクレームを立てるほど暇ではないのではないでしょうか。仕事に対する志が他人に理解されないたびに噛み付いているようでは、国家公務員に限らずどのような仕事でもうまくいく気がしません。

では「夢のある仕事」ってなんでしょうか、というと、隣に座っているクラスメートに聞いても見つからないのです。進路相談でどんなに素晴らしい進路指導ができる先生でも、コンサルタントでも、最終的にあなたの人生はあなたのものですから、あなたが何をしたいのかを決められるのは、あなただけです。

このような志がまだ見つからぬままに、なんとなく周りに合わせてエスカレーター式に進学できてしまうほどに裕福で平和なのが現代の日本です。そこに対して葛藤する、つまり「自分は何のために学費を払ってまで(もしくは親など誰かに払ってもらってまで)学校に通っているのだろう?」という自分に対する疑問を感じる機会が減っている。理想を言えば、そんな葛藤を感じる前にもっと早い段階において指針がとれるような教育カリキュラムが実現していたら、「夢に向かう」スタート地点が早まる世の中が実現可能なわけです。

村上龍の「13歳のハローワーク」は、こうした背景を憂慮して2003年に世に出版されました。2010年に出版された「新 13歳のハローワーク」には、600種類を超える職業が網羅されている職業百科事典です。13歳ならばこれくらいの職業を知っていてもいいでしょう、ということです。

小中学生に「将来どんなことがしたい?」と質問して、どんな答えが返ってくるでしょうか。高校生に同じ質問をして、大人がびっくりするような独創的な職業を返す子がどれだけいるでしょうか。子供に夢がなくなっているのではなく、子供に世の中の職業を知らせる機会が少なくなっているわけです。インターネットの普及によって、調べようと思えばいろんな職業について調べることができるようになったのにもかかわらず、です。

もしこれを読んでいるあなたが将来の職業選択に悩んでいる、もしくは漠然とした不安を持っている学生であるのならば、まずは「学校を卒業したら食べていくために仕事をする」というステレオタイプ化をやめてみませんか。

これは、転職を考えたことがあるけれど踏み切れない社会人の方や、自分がやりたいことについてぼやけてしまっている方にも言えることだと思います。

「給料はいくらもらえるのか」「将来的に給料が上がるのか」「安定性はあるのか」「社会的地位はあるか」といったような設問は、すべて、自分への利があるかどうかを基準にしています。

そうではなく、「わたしはこれが好きだ」「わたしはこれが得意だ」という自分が「持っているもの」を展開して「こういう風に、わたしは自分の好きなことや得意なことを伸ばしていきたい」という自分の欲求を捉え、さらにそれを実際に行動することで実践して、それで得たスキルを「世の中に還元していく」ことが、結果的に「誰かの利益を提供する」ことにつながるわけですから、当然ながら経済の論理で「あなたは見合った報酬を得ることや請求することが正当化される」わけです。憲法で謳っている公共の福祉の本質に迫る話でもあります。

さて、ここまでの話は、「利益」というものの考え方について話すために必要な、足場作りです。いろいろ端折っていますから、とっても単純で仮設っぽい足場ですが、なんとか次の話に進むことができます。

利益については、また別の記事で書いていこうと思います。

利益っていったい何なのか、皆さんが考えるきっかけになれば幸いです。

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