「いいね!」が示すもの

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僕は世の中の常識的な視点からするとひねくれているようで、逆説的なアプローチをとった帰結を発表することによって僕に対する全体認識がよりひねくれ方向に固着する事象をよく観察している。

でも実際には逆説も順説もどちらもバランスよく配分されているはずで、なぜかというとある命題に対して個人的な思い入れを排除した視点を維持することがそういう結果に繋がるからだ。

僕はSNSで今後の方策や指針、それを支える価値観の一部を匂わせる発言をすることがたまにある。その発言投稿に対して「いいね!」がつくと、僕はがっかりして、より深く広く突き詰めることをはじめてしまうのだ。

世の中で新しい領域のことは、誰にも理解されないはずだ。だから「いいね!」がつくはずがないのだ。

最近ある例外的な事実を認識した。一部の人は、すべての投稿に「いいね!」をつけるらしい。癖というべきか、習慣というべきか。なぜそんなことをするのか皆目見当がつかないが、きっと「これは読んだ」というマークなのだろうと思っていた。

しかしこれが違ったのである。ちょっとしたきっかけで、一部の人は読まずして「いいね!」をつけていることが判明してしまった。仕掛けはこうだ。僕がFacebookやTwitterなどのSNSに、当ブログに投稿した特定記事へのリンクを投稿する。すると「いいね!」がついた。ところが当ブログにはアクセス解析がついていて、誰がアクセスしたのかまではわからないが、何人その記事にアクセスしたのかはわかるようになっている。「いいね!」がついたのに、アクセス数はゼロ。ふーんなるほど、そういうことか。読まずに「いいね!」をする人が現実に存在するのだな。

まあ実際にはFacebookやTwitterに「いいね!」をつけた人は誰だかわかるので、誰であるのかは特定されてしまうのだ。

なるほどね、と。

これって「『いいね!』をつけたんだから、『いいね!』をつけにきてね!」っていうことなのかな。だとしたら申し訳ないけれども、僕はホントにいいと思ったものにしか『いいね』をつけない。

「それ思いつかなかったわ、いいね」
「なんかがんばってるね、いいね」
「充実してそう、いいね」
「楽しそう、いいね」

って感じ。

しかしまあ、そういうことではないだろうなと僕は思った。

きっとあれ。梱包材のプチプチを潰さずにいられないような、そこにボタンがあったら押したくなっちゃうような、衝動的な理由であるのではないだろうか。

あとはアメリカとかでよくある、

「xxxxx(名前) was here!」

みたいなやつ。日本でもよくあるよね。どこにでもあいあい傘を書いちゃったり、訪問記念に名前と日付を彫っちゃったりするやつ。

そういうことなんじゃないかな。

しらんけど。

ともかく、「いいね!」がつくということは、それは新しいものに対する人間の生存本能からくる拒否反応がイマイチだったってことだ。

「いいね!」がつかない活動に昇華させていきたい。

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