孤独という定義に意味はない

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年末あたりから体調崩してたんだけど、それからはや1ヶ月になろうとしている現在も不定愁訴に悩まされ、低空飛行を続けている。

やりたいことはたくさんあるはずなのに、手がつかない。

訴えたいことがたくさんあるはずなのに、言葉にならない。

共有したい発見、議論したい仮説。現実化したい計画。たくさんあるはずなのに、何も具体化してこない。

僕はいったい何のためにやってるんだろう。そう考え出してしまったら、答えはないのがわかってるのに、止まらない。

果たして僕がやっていることは自分のためや他人のためになっているのだろうか。人以外でもいい、何か未来につながることをやっているのだろうか。

そんなことは、答えが出ない。

誰かが「良いこと」と定義したものは、やってるだけで安心感だ。なぜなら多くの人がそれは意味があることだと信じてるから。しかし僕はそのようなことを客観的に検証して心から納得したことがない。なぜなら、「良いこと」かどうかの判断を他人任せにした時点で、大事なものを他者に依存してしまうから。良いことかどうかを自分で判断できる唯一の方法は、「好きかどうか」である。中途半端な好きではなく、正真正銘の、心から好きと言い切れるかどうかだ。

好きなものには言い訳がない。もしあなたがいま好きだと思っていることについて、少しでも現状に対する愚痴が出るとしたら、それはホンモノの「好き」じゃないよ。

僕はよく人前で、ワクワクする未来の話をする。それは実現可能であるからワクワクするのだが、はじめのワクワクは心の中で大切にしまっておくべきもの。なぜなら、それをやるとなると、当然だけど辛いことや苦しいことも、たくさんあるからだよ。

結局のところ、何事もやり通せるかどうかについて重要なポイントは、物事をいかに自分の都合の良い捉え方で解釈できるかに尽きると思う。同じ出来事をネガティブに捉える人、ポジティブに捉える人がいる。問題は何が起きたかという事実ではなくて、それをどう捉えるかという、主観の問題だ。

物事をポジティブに捉えるというのは、事なかれ主義とか、問題の本質から逃げるとか、そういうのとは違う。でも世の中には混同してる人が少なからずいることも学んだ。

ポジティブとは、弾性に近いことだ。外部から得た刺激を柔軟に受け止める、つまり感覚器の問題ではなく脳による認識の問題だ。さらに言うと脳はただの器官でしかなく、どのように捉えたいのかを脳に命令しているのはわたしたちの心の中にある決断の意志だ。

自分自身や他人を否定したところで意味はない。それがなんとなくわかっている小賢しい人たちは、否定も肯定もせずに立ち去る。意思をぶつけあう議論から逃げるのだ。自身の人生から逃げている臆病者だと断言しよう。

厳しいのは目の前にいる相手ではなく、事実の認識の仕方にある。ネガティブ思考の人は、自分にも他人にも必要以上の厳しさを与えようとするのだ。しかし実際のところ、厳しいと感じる事態は人生の中で勝手にやってくるものであり、シンプルにそれを乗り越えるだけでいいのだ。そこに厳しさを感じるも感じぬも、己の自由だ。

年末からずっと、いや、昨年初頭からずっとかもしれない。僕は他者への無意識の共感と、相手方に立った具体的な解決策にはまり込んでいた部分があったことは否めない。しかし個人の課題はあくまで個人に帰属するものであり、僕は他人の人生において傍観者でしかないことを忘れたことはない。主役のすり替えは、僕の仕事ではない。世の中に宗教型ビジネスや依存型ビジネスが横行しており、それらが甘い蜜を湛えているように見えるがために、自分の人生を生きると言う基本的意志が薄弱になっている現代人の多くはそれに最も簡単に溺れる。

課題は僕が言語化しているだけで、僕が作っているわけではない。

今年に入って1ヶ月近くが過ぎようとしている。僕が他人に語る言葉を失って1ヶ月。それは何かが枯れたのではないと言うことをいま認識している。

僕は元々こんな感じなのだ。自分がやっていることや、その理由。自分が信じていることや、その説明。自分が予測していることや、その解説。これらの事は、自分の中できっちり解決している。わざわざ説明しようったって、喩えれば一般相対性理論を2歳児に説明できるかって話だ。

僕はいつもニコニコしていて人当たりが良いからナメられやすいって言われたことが何度もある。相手の話をきちんと聞くから依存されやすいとも言われたことが何度もある。そっか、でも僕はそれをやめないよ。なぜならそれは僕の意思や未来の目標や夢とは全く関係ないところにある僕の本質の部分だから変えようがないんだもの。

相手の話はきちんと聞く。きちんと聞いたって全てを理解する事はできない。でもできないからといって手を抜く理由にはならない。僕にできる範囲でしかないけどちゃんと真面目に聞いてるし、なぜその話を僕にするのかも考える。悩んでいるのならば解決策のヒントも出せる。でも多くの人はヒントを出してもそれをやってみようとすらしないで、やれない理由を並べる。コンフォートゾーンなんだね。つまり今が居心地いいって事だろう。本当に困っていたらすぐにやるもの。

僕は自分の人生の使い方を自分で定義するのが好きだ。例えそれが自分で決めていると思い込んでいて神の掌の上で転がっているだけなのだとしても。理解できないほど深い叡智について考えても仕方がないし時間の無駄だ。己のちっぽけさを知れば、叡智の深淵について確たる情報を十分に持たぬまま考えるのは理論の暴走になることくらい、わかっているからね。

大事なことはSNSに書けない。なぜならそれはあまりにも端的であるから。そして集う人々は、「決めつけ」と言う名のついた無数の箱のどれかに僕を当てはめる事しかしない。

僕が世の中の差別と区別についてどのような意見を持っているかについて、僕は簡単に説明できない。だからいつか絵本を描きたいって言ってるんだ。その絵本は一冊ぽっきりの単発ではない。物語があり、舞台があり、文化設定がある中で語られていく長編です。ひとつひとつの作品はバラバラに読んで意味があるけれど、シリーズを読み重ねていくうちに世界観や思想が見えてくる、そういったタイプのものです。おそらく僕は人生の晩年をそれに費やすのだ。でも今は、他に優先してやりたいことがある。

人種差別について僕がどう思ってるかなんて、ここにすら書ききれない。LGBTがLGBTQになり、LGBTQ+になったのはどうしてだか、わかってない人が声高にLGBTQ+を叫んでる世の中です。名前をつけた時点で区別が起き、区別した個々のグループを少しでも比較した時点で差別が起きるという、まさにドグマに囚われた状況が世界中で起きている。特にここ日本はひどい。単一民族国家という幻想が抜けてないから、差別や公平について語る人たちのレベルが低すぎる。レベルが低いというのはどういうことかというと、浅はかで勉強不足って事です。勉強不足を解消するためには本を読んだりセミナーやイベントに参加することや同グループ内で議論したりするだけじゃ全く足りないっていうことが、わからない人たち。ここは島国、日本だ。本当の学びは現実の中にある。

差別をなくすために差別を浮き彫りにしたり、差別を糾弾したり、差別されている側だけで固まったりしたら、逆効果なのですよ。それこそ差別主義者たちの思惑通りだという事です。

そもそもLGBTQってなんなんだよって思う。黒人とか白人とか黄色人種とかさ。人はそれぞれ全く違ってて、同じ人なんで1人もいない。これが言葉にするまでもなく「多様性」ってやつだろ、と、ひとりごつ。

どこの国で生まれたかとか、悲劇の歴史に巻き込まれたとか、土地がないとか、肌の色がどうとか、男だ女だとかどっちでもないだとか、政治的な思想がどうだとか、どんな神を信じてるだとか、金が大切だとか金は要らないとか、みんなみんな、境界線を作ってカテゴライズするのが大好きだな。

僕は違う。そして世界は広いんだから、僕のこの感覚に共鳴する人がたくさんいるはずだ。そしてこれは誰もが理解しようという意思さえあれば理解可能な事だ。

猫が毛の色で猫を差別しますか。猫の毛の色や血筋にこだわってるのは、人間だけですよ。

猫ってカテゴリーだって深く広いのだ。同じ猫は2匹いない。みんな性格も姿形も違う。

死んだあの子に似てるって決めつけてるのは、いつも人間。それは、脳が平和という幻想に侵されているからですよ。コンフォートゾーンがなぜできるのかというと、群社会から生まれた副産物でしかない。

みんなと同じ? そんなことは幻想です。

すくなくとも僕は僕という自由になる肉体を持っているので、僕自身は決めつけというドグマから自由でいる。

何事も白黒はっきりさせないと前に進めない人は、ノイマン型コンピュータに毒されすぎ。

世の中で見たり聞いたり感じたりできることの中で、はっきりと断定できることは皆無なのだ。すべては不確定で、暫定的な仮説の山の中で僕たちは生きている。決めつけが起きたら老化まっしぐら。認知症待ったなし。

わたしたちの文明に対する依存や信仰心が強過ぎれば、理解不能な自然に対する畏敬の念が失われてゆく。僕は、この世の中のことをほとんど何も知らない。しかし幸いなことに僕は神との公示的な対話を経て、もしかしたらそれは自分自身の真相意識の奥深いところとの自己対話だったのかもしれないが、少なくとも僕がなぜ今この世に生かされていて、なんのために死なずにいるのかを納得している。理解しているかどうかはわからないが、僕の全身全霊が納得しているという事態なのだ。

みんなだって、この世のことは何も理解していないも同然。自分に理解できてないけど世の中の誰か他の人間が理解していることが多いことを知ることは、「人類はこの世の謎を解き明かしつつある」という短絡的結論に繋いでしまっては、本質が見えなくなるという事です。

わたしたち人類は、まだ何も知らないも同然だ。しかし理論的に理解できなくとも、わたしたちには総合的な感覚がある。それは上位から流れ込む直感であり、感情であり、意思に繋がる何かなのだ。

ともあれ、2022年の地球をリアルに体験できていることを奇蹟と思う。わたしはわたしがいちばん大切にしていることをまともに言語化して発信したこともなければ、これからもそのような形での発信はしない。

言葉は事象の共通認識を示すために生まれた。この世には有用な伝達手段は言語や映像以外にもたくさんあるのだ。

SNSとかメタバースとか、自然の叡智のごくごく一部だけ切り取って、それがさも価値があるかのように洗脳して、それに人々を依存させていくビジネススタイルを僕は許容しない。本物の価値は魂が生む。

くだらない浅薄なソリューションをありがたがらざるを得ないような世の中の仕組みに流されるのはもうやめよう、と決意する人がひとりでも増えてくれることを願ってやみません。

僕ができることは、ほんのちょっと。

でもその、ほんのちょっとが、世の中を変える。僕がラッキーな理由のひとつは、それを知っていること。

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