無限の同時多発的な存在について。
すべての可能性の先にあるのは虚無ではない。そこにあるのはすべてだ。
成るべくして成る。
たとえばこのブログを書き続けていることに意義はある。意義はひとつではない。時系列的には後から知ることも沢山ある。
予測と予知は違う。予測は外れるが予知は外れない。何故なら予測も予知も当たったか外れたかは後になってわかるが、予測は外れても予測だが、外れた事象は予知とは言わないから。
そもそも予知は確信と同じで、外れようがない。100%の確信と100%の予知の違いを述べられる者はいない。
だからこそ予知には理由がないし、予知であるという自覚もない。そう成るのは自明の理であると確信しているから。
その力が理解できる頃には、予知や確信において貪瞋痴の入る余地はない。貪瞋痴は心の三毒とも呼ばれているが、その毒こそが叶うものも叶わなくさせる、確信や予知を阻むものなのだ。
力はそれを扱う資格のあるものにしか与えられないような摂理となっている。これを道という形で示したり、修行と称する学びの流れにしたりしたものが世の中にはある。悟りとは心身魂すべての調和において識ることと言い換えることとも遠からじ。
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