Nike Plusのススメ
3月 6th
ランニングを始めて本当に良かったと思っている今日この頃。
走ると本当に気持ちがいいです。日常生活でズレてしまった体のギアが綺麗に噛み合い、油の切れかかった部品に油を注したような気分になれます。
最近はランニング仲間と走るとき、会話が絶えません。話しながら走れるくらいの力がついてきたというのもありますが、たとえば10km(皇居2周)を会話しながらゆっくりと、1時間くらいかけて走るんですが、不思議と走行中ってみんなあんまりネガティブな話題を出さないんですよね。
というか、ランナーの人たちは基本的にポジティブ思考な気がします。走っているときも、そうでないときも。
朱に交われば赤くなります。自分がネガティブ思考だってわけじゃないんだけど、やはりエネルギーに満ち溢れていて、どんな事にでも全力で取り組んで、人生を本気で突き進んでいる人たちが周囲にいるのは良いことだと思います。これはランニング仲間に限った話ではないですね。
一人で走るときは、心をからっぽにして景色を楽しんだり、テーマを決めてじっくりと考えにふけったり、いろいろです。
「一緒に走る人がいないとついつい楽をしてしまう」のは、初めの頃だけでした。今は逆に、一人でいろいろ考えながら走るのが楽しかったりします。
たまに一人で、たまに仲間と走れるのがいいですね。
さてご存知な方はご存知ですが、私はランニングの記録をNike Plusに登録しています。
このシステムが無かったら、今までランニングを続けることは出来なかったかと思います。それくらい秀逸なシステムです。やる気を維持するためのいろんな仕組みが組み込まれています。
私の場合はセンサーを組み込んだナイキのシューズとiPhoneの組み合わせでやっていますが、iPod nanoでも出来ますし、音楽を再生する機能がいらないのなら、専用のバンドもあります。
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“(ナイキ) NIKE NIKE+ SPORTSBAND2(ナイキ+ スポーツバンド2) アンスラサイト/ボルテージ 077アンスラサイト/ボルテージYEL” () |
Nike+を始めるためには、以下のものが必要です。
(1) 以下のいずれか
- NIKE+ SportBand(上記のバンド)
- iPhone 3GS(3Gは非対応なのでご注意)
- iPod nano
- iPod shuffle(2008年9月発売の第2世代以降)
(2) Nike+のセンサー
iPod nanoの場合は、センサーからの電波を受信する機能が内蔵されていないので、レシーバー付きを買う必要があります。
それ以外の場合は、センサーのみで大丈夫ですが、センサーのみが売っている場所は限られている模様。
Apple Storeと近所のスポーツオーソリティでセンサーのみの販売を確認してます。
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“Apple Nike + iPod Sport kit MA365J/B” (アップル) |
センサーのみ → http://store.apple.com/jp/product/MA368J/D?mco=MTY3ODQ5OTY
(3) センサーの収納場所
Nike+に対応したNikeのランニングシューズを使っている方は、センサーを収納する場所がシューズの中敷きの下にあるので、そこに入れるだけです。
それ以外の靴を履いている方には、以下のように靴ひもに固定できる便利なケースが売ってます。(ヤマダ電機のiPodコーナーにもありました)
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“Marware Nike+iPod用センサーホルダー SportSuit Sensor+ MW-SSSS-BK” (Marware) |
Appleデバイスで始めたい方は、以下のサイトをご確認ください。
http://www.apple.com/jp/ipod/nike/

Nike+のFAQは以下です。
http://nike.jp/nikeplus/faq/about_sportkit.html
バンドあるいはiPod nano/shuffle/iPhoneをPCにUSB接続すると、ランニングの記録がNike+のサーバに同期されます。
それをもとに、Webページで様々な情報にアクセスしたり、チャレンジやコース、トレーニングを組んだりすることができます。
これらのWebサービスはすべて無料で受けることができます。
▼ちなみに私のNike+の走行距離。

ランニングの距離が増えていくとランキングが上がりますが、上がったら何がどうなるのかはイマイチ良く分かっていません。
▼このように、過去の走行データにアクセスできます。各グラフをクリックすると、詳細が表示されます。
事前にマップでコースを作って割り当てておけば、どこを走ったのかも分かりますし、メモをつけておくこともできます。

▼ランニング仲間が作ったチャレンジ。チャレンジは好きな条件で誰にでも作成可能。このチャレンジは、1月〜3月で30km走ろうという、かなりゆるいチャレンジです。
ちなみに1位の人は元同僚のラン仲間ですが、1月から既に822kmも走ってますね。尋常じゃないです……。

▼トレーニング画面。私は5月30日に山中湖マラソンでハーフを走る予定なので、ハーフマラソンを走れるようにするトレーニングをやっている最中です。なかなか指示通りに走れていませんが、ハーフを走れる体を作るためには何をしたらいいのかという目安になるので重宝しています。
ほかにもランニング初心者向けの「まずは5km走れるようになる」トレーニングや、10km、フルマラソンなど、いろんなトレーニングがあります。

▼ランニングコースは以下のようにGoogle Mapsと連動していて、道路をクリックしていくだけで簡単にコースを登録できます。曲がり角やカーブなどは自動的になぞってくれるので、本当に簡単です。下の画像は、皇居1周のコース。
ほかのユーザが登録したコースを見ることもできるので、自宅のそばに誰かが登録した良いコースがあれば参考にできて便利。
また、Nike+をつけて走行すれば走行距離が出ますが、これはGPS非連動なので精度があまりよくないので、ここでコースを登録して、正確にどれくらいの距離を走ったのか(走るのか)確認もできますね。

▼コースの登録が多い場所が白く光っています。やはり人口の多い都市部に集中していますね。

▼関東を拡大してみると、やはり東京23区内は凄い数。ランナー人口も多いですからね。

ランニング仲間がどれくらい頑張っているかを確認することもできますし、いろんなチャレンジに登録して自分に目標を課すこともできます。
ランニング用のガジェットとしては、Nike+より高性能なものもたくさんあります(GPS連動とか心拍計付きとか)。しかし手軽にランニングを楽しみたいなら、Nike+おススメですよ。
Ars longa, vita brevis
3月 4th
Ars longa,
vita brevis,
occasio praeceps,
experimentum periculosum,
iudicium difficile.
愛でてよし、食べてよし
3月 4th
予防策「防波堤を築く」という意味で、本日心療内科に行ってきました。
数年ぶりだったので問診票に記入し、久々に合った先生に状況を説明。説明しながら、「あ、まだたいしたことないな」と思いました。
たいしたことがあるのかないのかを判断すべきは自分ではないので、行ってきたわけですが。過去の失敗は繰り返さない。
結果、それほど悪い状況ではないということで、最低限の抗うつ剤を処方してもらいました。
睡眠障害は無いので、導入剤は無し。
抗うつ剤は、しばらく飲み続けないと効果が出ません。2週間様子を見て、量の調整をすることになりました。
以前も書きましたが、初期の段階において病気の度合いが悪いから薬の量が多いとか、そういうことはありません。単純に、人によって効き目が違うからこの手の薬は少量から始めて、効果が出るレベルまで少しずつ増やしていくのが定石なんだそうです。
今回処方されたのは、かつて相性が良かったC17H16CIN3O (Amoxapine) を、25mg/dayです。
第二世代の三環系抗うつ薬で、SSRIやSNRIと比べて副作用が大きい(肝毒性・心毒性がある)ことと、効果が出てくるまで2週間前後かかるという問題がありますが、 強力な抗うつ作用があります。少なくとも私にはよく効くものです。
後述しますが、薬の力だけでどうにかしようとして飲むわけではありません。気持ちを持ち上げる代償として内蔵を破壊しているわけですし、なるべく早く、薬を脱したいです。ただ、この薬は勝手に止めるとひどい副作用を誘発する恐れがありますので、医師と相談しながらになります。
――
うつ病の気分の状態についてちょっと考えていたことがあるので、今日はそれについて書いてみようと思います。
化学的にも医学的にも根拠がない、ただ私が個人的に感じていることを書いているだけなので、ご理解ください。
――
青いグラフ: 感情の起伏。気分の状態。上にいくほど幸福感が増し、下にいくほど絶望感が増す、つまり落ち込んだ状態。脳内環境と連動しているのだろう。
赤いエリア: よくわからないもの。心という一体どこにあるのか良くわからないものの何か。下に落ちれば落ちるほど密度が増し、重力が増す。
▼以下に示すグラフが、私の考える「健常な状態」

中間の状態はグラフ中央のライン。感情の起伏が上方向にも下方向にもある。
基本的に赤の濃いところまでは滅多に落ちない。それは、心が体(脳)をコントロールできているから。
精神は常にバランスを保つように調整されている。つまりグラフ中央付近に落ち着くように働いている。
ハッピーなことがあっても永遠に浮かれていることはなく、いずれ落ち着くし、悲しいことがあっても寝たり泣いたり食べたり笑ったり気分転換したりして、元に戻る力が働く。
▼ところで、うつ病というと以下のような状態を想像する人が少なくないと思う。

赤いエリアはそのままで、青いグラフが落ち込んでいて上がれない状態を示している。
しかしこれは、ただの「落ち込み」で「うつ病」ではないと思う。
この「落ち込み」状態が長く続くと脳内物質の分泌が不足しているということになるが、赤い部分が正常なのだとしたら、それは例えば他の病気に起因する「内因性」のうつ病のことではないか。その場合、原因となる病気を治せば、自然に気分もよくなる。
ちなみにこの状態を持ち上げるには、自然回復のほかに抗うつ剤が役に立つ。薬は、青いグラフを持ち上げてくれる。
▼私が「うつ病の予兆」と言っているのは、以下のような状態だ。

このグラフの青の値は、1枚目のグラフと同じ。つまり感情の起伏は、なんの異常もない状態。
ただし、赤いエリアの水位が違う。1枚目のグラフでは50%の位置だったが、このグラフでは80%の位置。
このような状態では、まず初期には普通に生活していて、感情が働いている。
しかし、赤いエリアの影響が大きいため、いったん何かのきっかけがあると、沈み込んでしまう(うつ病を再燃させてしまう)危険がある。
時間の経過もマイナス要因であるように思う。とにかく、この状態が長く続くと、悪化しやすい。
冬期にうつ病が悪化する人が多いが、冬期はこの状態になりやすいのではないだろうか。日照時間と関係がある気がする。
それから、落ち込んだ状態を薬で持ち上げたときも、このグラフのような状態。
実際、赤いエリアから上に顔を出している部分が増えているから、結果的に「落ち込んだ状態」から抜け出している時間が増えたということになる。これが、薬の聴いている状態。薬を否定する人がいるが、とにかく上げた状態になるのは確かだから、飲んでいる限り次のステージに進むことは抑えられるか、または遅らせられる。その間に何とかしろっていう執行猶予が得られる。
この「何とかする」を間違えると、コケる。
何とかするのは青いグラフではなくて、赤いエリアのほうだ。
どうしたらこれが普通の状態になるのか。次のステージに進む前に何とかしないといけない。
薬はだんだん効かなくなる。ここは、自分と病気との攻防になる。薬を増やしても完治しないのはこういうことだと思う。
▼さらに病状が進むと以下のような状態になる。

こうなると、そう簡単には上には抜け出せない。
「何か」(エネルギー?)が尽きたところで、赤いエリアから完全に出られなくなる。
無感動の状態。映画を見ても音楽を聴いても感動できないし面白く感じられない。絶望感。暗闇。
ブラックホールには、「これ以上近づくと光ですら脱出できなくなる」という「事象の地平」(イベントホライゾン)という境界があるが、精神状態もそのラインを越えてしまうと、自力で戻ることはできないように思う。
うつ病の原因としてWikipediaにはセントロニンやドーパミン云々の記述があるが、これは心因があってその結果でしかないと強く思う。
前段として、心の問題があるに違いない。その結果、脳内物質の不足等が発生し、それが更に、気分を落ち込ませるという結果を呼ぶ。
外的要因が心へどのような影響を与え、それがどのようにして脳内の化学環境の変化につながるのか。
現在、心療内科や精神科で一般的にとられているのは薬などによる対症療法だ。(薬以外にもマイナーな方法はある。電気を流すとか温めるとか。)
ほかには、漢方がある。漢方は一体どこに効いて来るのか、私は専門家ではないから分からない。
少なくとも、対症療法がとられる西洋医学の力が介在できるのは、上記の青いグラフの上下をコントロールするだけ。
ひとが心を病んでしまう原因は千差万別だろうから、これに本気で取り組むことができるのは自分だけだと思った方が良い。
医師がそこに切り込むのなら、患者と本気で向きあわなくてはいけないし、マニュアル通りのカウンセリングでなんとかなるものではないと思う。
長い間感情の起伏に晒されると、精神的に疲弊する。
ゴムの伸び切ったバンジージャンプ。定員オーバーの旅客機。気の抜けた風船。
気分を持ち上げる、上昇能力の不足。さらに落ちる。また上がれなくなる。悪夢のスパイラル。
スポーツの効能について。
スポーツをすることによって、例えばランナーズハイのように脳内に分泌されるエンドルフィン等によって直接的に気分がよくなる効果はあると思う。
また、体力が強化されることによって、落ち込んだ状態でも日常生活を送れるガッツがつくかもしれない。
スポーツによって気分転換できるので、それも気分をよくするきっかけになる可能性がある。
逆に、運動をして体力を使い果たした直後に、ちょっと落ち込んだ状態になることもある気がする。
長期的にみて、うつ病の原因となっていることを「吹っ切れる」とか、「忘れられる」とか、「耐えられる」ようになる期待は持てるかもしれない。
音楽の効能について。
音楽に限らず、視覚以外の情報をうまく利用するのはいいと思う。とくに私のいる業界のように視覚情報に思いっきり頼りがちな生活をしていると、視覚的なものから感動を得ることが難しくなる。慣れきってしまうから。
普段あまり食に興味のない人なら、たまにものすごくおいしいワインを飲むとか、奮発しておいしいものを食べに行くとか、そういうのも悪くない。
聴覚、嗅覚、触覚は、都会暮らしをしていると特に使われなくなる。
美しい音。音楽。川のせせらぎ。海にいくと落ち着くのは波の音があるから。
花の匂い。アロマ。お香。そういうものが、普段刺激されないところを刺激してくれて、とてもいい。
ただし、うつ状態の真っ只中にいると、そのような情報を受け止められない。
だから一旦薬で持ち上げておいて、他の手段で引っ張る。
生命活動(エネルギー)のベクトルについて。
外向きと内向きのバランスがある。崩壊すると死に至る。
躁状態だと、外向きの力が強くなっており、うつ状態だと内向きになっているように感じる。
内向的になると全てが悪いかというとそうでもない。
健常時よりも考察が深くなる。思考範囲・行動可能範囲の限定により、深い思考に入ることが容易になる。
しかし、さらに悪化すると、秩序だった思考の継続も難しい状態になる。
自意識と肉体と精神のつながりがよくわからないことが、精神的な不安定を作り出しているのではないかと主張する人がいるが、私はむしろ逆であると思っている。
「自分とは何なのか。自己とそれ以外の境界線はどこであるのか」という、哲学的な問いになってしまう。
残念ながら哲学の知識は無いも同然なので、独自のトンデモ哲学を展開するしかないのだが。
私がものを考えなくても春になれば桜は咲く。走っている車のガソリンは減っていく。これらは私の肉体とのつながりがない、もしくはほとんどないと言えるほどに希薄である。
故に私が観察していなくても咲く桜の花や減っていくガソリンは私自身と関連していないと考えてよい。本当によいのか?
では私の肉体についてはどうか。
呼吸はどうか。心拍はどうか。爪を切り落とすことによって私自身の何が変化するか。
髪を切り落とすことではどうか。怪我はどうなのか。
それは神経なのか。それとも細胞の集団活動なのか。はたまたDNAなのか。脳だけなのか。
私の肌と触れている空気や服の繊維はどうなのか。私が流す前の体内にある汗と、流した後の蒸発していく汗はどうなのか。
体中を駆け巡る血はどうか。かさぶたはどうか。
私自身をえぐり出す明確な境界線はあるのか。
愛情はどうか。愛する家族を失ったとき、自分の身の一部が切り落とされてしまったような感覚になるのはどうなのか。
自分の遺伝子を引き継いだ子供はどうなのか。別々の「意思」をもって動くふたつの生命体をひとつの精神体もしくは心として定義することは果たしてナンセンスなことなのだろうか。
それは単純に利己的なだけではないのか。自分の独立性を保ちたいという無意識(あるいは意識)がそう決めつけることで安心しているだけではないと誰が、それは証明できるのか。
心象は何処で描かれているのか。
脳内のパルスであり、化学反応であり、その結果であるのか。
そのパルスを作り出す動機は、化学反応を起こす動機は、すべて外部からの刺激に対する反応で片付けられる問題なのか。
もしそうでないとするならば、うつ病が心の状態変化によって脳内物質の状態の変化を励起しているように思われるのと同様に、心と呼ばれるなにか――わたしたちが感じたり考えたり普遍的でいる意識、形而上も含めたなにか――によって私たちの脳内パルスや化学反応が起き、それが結果として運動神経、あるいは感覚神経に影響を及ぼしているのではないのか。
数学的、物理的な存在であるとするならば、常に右辺と左辺は釣り合っていなければならない。
現在の人間の行動はすべて、最小単位に分解して分析したら数学的に説明のつく反応の連鎖が重なって結果を生み出している(思考も含めて)と考えていいのだろうか。私がこのようなことを書いているのもすべて、風が吹いたからなのだろうか。「反応」の高次化を積み重ねていったら、そこに「人格」は形成されるのか。
心、あるいは意識というものが何なのかわからないのに、私はそれと共に生きている。
私には意識と無意識がある。無意識に支配されていると思うことがある。考えてもみなかったことに、影響を受けている。
だからこういうことを知りたいと思う。私のこの問題と密接なかかわりがあるように思えるから。
表現したかも(BlogPet)
3月 2nd
犯罪24
3月 2nd
先日、近所の24時間営業の複合店に行ったところ、入り口に盗難事件の情報が掲載されていた。
そのお店はCDやDVDの販売、レンタルのほか、書籍、雑誌、文房具、新品/中古のゲームソフトまで扱っている。
店員を売り場に誘き寄せ、その隙にカウンター内に侵入し、ゲームソフトを100本だか200本だか盗んだらしい。
店頭には防犯カメラが撮影した二人組の映像が掲載されていたが、カメラの画質悪すぎ。
野球帽をかぶり、マスクをつけた若者風、としか分からない。
全然防犯になってねえ。
VHSをぐるぐる回さないといけなかった時代なら分かるか、HDDが1TBでも1万円を切るこの時代、数十万画素のWebカメラなんて数千円。
ネットワーク対応のカメラですら数万円で買えるのに、どうしてそのような役にも立たない低画質でカメラを回し続けるのかな。
こういった事件が起きるのは、深夜に営業していることも大きな原因となっているのではないか?
さらに、深夜に店員が少ないから防犯が手薄になる。おそらく犯人はこの店に下見に来て、そういった手薄なところを見ていたに違いない。
確かに24時間営業していると便利なこともある。自分もたまに使わせてもらうけど、無ければ無いで特に困らない。
コンビニ、スーパー、ゲーム屋、レストラン、ファストフードなど、24時間営業やめてもいいんじゃないのかね。
経済効果がどうのこうのって言うけど、必要なもの、欲しいものは深夜に売ってなければ売ってる時間に買うでしょ。
それよりAmazonに対抗できるサービスが国内に無いということが問題なんじゃないの。
(楽天はAmazonに匹敵するとはお世辞にも言えないと思ってる)
試しにセブンイレブンあたりが24時間営業を一斉にやめないかな。
何がいけないんだ?
3月 1st
体重こそ理想通りに減っているとは言い難いが、ランニングを始めてから体の調子がすごくいい。
しかし今、これはうつ病とはほとんど関連性が無いのではないかという不安を覚えている。
最後のうつ病を乗り越えてから、3度目の冬を終えようとしている今、危機感に襲われている。
今朝目覚めてから、明らかに調子がおかしい。
気のせいかとも思ったが、時間が経つにつれ、疑いは確信に代わりつつある。現在、午後2時。状態はすこぶる悪い。
まず始めに、「どうして?」という強い思いが頭の中を駆け巡った。この事態を避けるために様々な努力を積み重ねてきた。それにもかかわらず、またあの悪夢的な精神状態が頭をもたげてきたのだ。
これまで数回にわたり、うつ病を再燃させてきた。最大の失敗は、その「予兆」を予兆として受け止めなかったことにある。予兆を「気のせい」にしたくなるのだ。もうあんなことが二度と繰り返されてはならない、という強い感情が、冷静な判断力を奪うのだ。
かくして、予兆を無視し「大丈夫だ」と決めつけたかつての自分は、大きく転び、うつ病を再燃させた。
その反省を胸に、予兆に対しては敏感になろうと決めた。
起きる前に、対策を打つ。津波が来る前に、防波堤を置く。
これは効果をあげた。ここ数年間、問題なく過ごしてきた。
しかしここにきてまた来るか!?
本当にもう、いい加減にして欲しい。
仕事もプライベートも色々あるけどうまく楽しんでやってる。ランニングが楽しい。ご飯がおいしい。何がいけないのか?本当に、何がいけないのか。
経験のある方ならおそらく同意してもらえると思うが、うつ病は完治しないと私は思っている。
薬の力あるいは環境の改善など別の方法をうまく使うことによって、限りなく完全寛解に近い状態に持ち込むことができる。これができなければ、辿るべき残された道はひとつ。死あるのみだ。人によって進む速度の違いこそあれ、周囲の努力はその道を歩む本人の速度を緩めることしかできない。
しかし同時に、薬以外でも取れる対策はあると信じてきた。
形而下の個人に起きる現在のすべては、経験によって積み上げられてきたものだと思う。脳内で起きていることに限らず、肉体的なものも含めてすべてだ。
たとえば運動を繰り返せば強靱な肉体がつくりあげられると同時に、運動をしなかった自分とは違う精神状態がつくりあげられる。
ある特定の音楽を聴いて涙するのは、経験と深く結びついているからだ。
同様に、うつ病も経験と深い結びつきがあるように思う。
自分にとって特に重要なのは、再燃するプロセスを解明することだ。これには一般的というものがないと思う。だから、医者に頼っていてもどうしようもないのだ。医者は当たり障りのないことしかアドバイスすることができない。睡眠は多く取れとか、頑張るなとか、リラックスしろとか。
再燃するプロセスには何らかの法則があるに違いない。
だが、その仕組みが分からない。とはいえ、平和に生きていくためには、うつ病をなるべく起こさないよう細心の注意をする必要がある。
というわけで、自分なりにまとめた「再燃防止マニュアル」がここにある。
- 体内の糖度を上げすぎない
- 生活に運動を取り入れる
- 極度の睡眠不足を避ける
- 睡眠しすぎを避ける
- 早起きする。休日も午前中に起きる
- 何事にも「完璧」は無いと肝に銘じる
- 仕事とプライベートの切り替えをはっきりさせる
- きりの悪いところで仕事を止めない
- 休みの日に仕事しない
- 仕事中に遊ばない
- 体を冷やしすぎない
- なるべく太陽の光を浴びる
- 冬は特に注意する
しかしこれは、役に立っているのか立っていないのか全くわからない、なんとなく作っただけのマニュアルである。
そして今回、このマニュアルが役に立っていないことがわかった。たぶん正解(の一部)は含まれているのだろうという気はするけど、十分に洗練されていない。
上記すべてをこなすことができれば世話はないが、それこそ「完璧」を求める姿である。逆効果になりかねない。
世の中に「うつ病」と呼ばれているものの正体は、よくわからない。まるで「風邪」のようでもあるし、「がん」のようでもある。「自律神経失調症」のように、つかみどころがない。もしかしたら病気ですらない、原因があって導かれた結果、つまりただの正常な精神的状態なのかもしれない。
医学的に、うつ病のプロセスは解明されていない。
現在「うつ病」と呼ばれる範囲には、複数の病気が混在しているのではないだろうか。
うつ病は現在、心と脳の病気だといわれている。
この、心と脳という、まったく種類の違う単語が同列に並べられている事に、違和感を覚えざるを得ない。
脳はわかる。頭蓋骨の中に収まったあの物体だ。様々な信号が飛び交い、体の隅から隅まで制御し、思考する器官だ。
では、「心」とは一体どこにあるのか?
Wikipediaによれば、うつ病の「脳の病気」の仕組みについて以下のような説明がある。
「脳の病気」という面では、セロトニンやアドレナリンの不足が想定されており、脳内に不足している脳内物質(ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなど)の分泌を促進させる薬物治療を行う。これが心療内科や精神科におけるうつ病治療の主流になっている。
しかし私は今まで何度もうつ病を再燃させているが、脳内物質の測定をされたこともなければ、如何なる化学的検査も受けたことがない。
小学校低学年の頃、原因不明の腹痛・頭痛に悩まされた時期がある。医者に診てもらうと「自律神経失調症」と言われた。
しかし一向に良くならない。母親はたいへん心配し、東に名医がいると聞けば私を連れて行き、西によい大学病院があると聞けば予約して私を診せた。
診察の内容も一般的な血液検査、レントゲンなどから、CTスキャン、脳波測定、果てはロールシャッハテストやESPテストのような訳の分からないカードを使ったテストまでやり尽くされた。
しかし誰にも私の腹痛の原因は分からなかったが、医者も「わかりません」とは言えないのだろう、それで「自律神経失調症」という便利なカテゴリに私はセットされ、当たり障りのない頭痛薬と腹痛薬を処方され続けてきたのだ。
日本心身医学会では「種々の自律神経系の不定愁訴を有し、しかも臨床検査では器質的病変が認められず、かつ顕著な精神障害のないもの」と暫定的に定義されている。ただし、この病気は日本では広く認知されているもののDSMでは定義されていない。ICD-10 においては、G90 Disorders of autonomic nervous system [1][2]に分類され、特定の病名に帰着しないものを G90.9 としている。
この病気は昭和36年ごろに東邦大学の阿部達夫が定義したものであるが、現在も医学界では独立した病気として認めていない医師も多い。実際この病気は患者の症状も多様である上に、ストレスなどの精神的な問題も関係しているとみなされているため、非常に曖昧に使われている病名であるといえる。
この病気は実際にはうつ病やパニック障害や身体表現性障害などが原疾患として認められる場合が多く、原疾患が特定できない場合でもストレスが要因になっている可能性が高いため、適応障害と診断されることもある。また、癌などであっても似たような症状が表れることがある。
また、原疾患を特定できない内科医が不定愁訴などの患者に対し納得させる目的でつける、と言う否定的な見解もあり、内科で自律神経失調症と診断された場合は心療内科・精神科などでカウンセリング・投薬治療を受けることを勧められている。
私が小学生の頃には、心療内科などというものはあったのだろうか?
当時はどうだったか記憶していないが、精神科というものは、「頭のおかしくなった人間がかかるところ」という偏見があったに違いない。
そもそも、小学生が自律神経失調症を理由に心療内科や精神科にパスされる仕組みも無かったのではないか。
仮にあったとしても、心療内科や精神科で私の問題が解決できたとは到底思えないのだが。
この自律神経失調症の状況と、いまのうつ病の状況は、救いようがないという点で非常によく似ている。
もしかしたら同源なのかもしれない。
とにかく言いたかったことは、うつ病という病気は、現代の医学では何も解明されていない、訳の分からない病気だということだ。
一体自分には何の問題があるというのか。
気分が落ち込んでしまって仕方がない。
仕事が手に付かないほどではないが、こうして何かを書かずにはいられないほどにショックを受けている。
今日は皇居で走る日だけど、早く帰って寝たい。
寝れば治るかもしれないし。
ツタヤ TSUTAYA
2月 21st
ちょっと前からツタヤが輸入盤CDを扱い始めましたが、近所のツタヤが期間限定で輸入盤CDの100円レンタルをやっていましたので、たくさん借りてきました。
ツタヤでは一度に10枚までCDを借りられるので、MAX借りです。もっと詳しく書くと、CDを10枚、DVDを10枚で合計20枚まで借りられます。シングルCDはまた別枠だった気もしますが、シングルCDは殆ど借りる機会が無いので忘れました。
さてここからは細かくてくだらない話になります(ツタヤを使う人には面白い話かな?)。
車で気軽に行ける範囲内にツタヤが6〜7件あるのですが、不思議なのはお店によって色々と違いがあることです。
ツタヤオンラインのメンバーになってお気に入りの店舗を登録しておくと、そのお店で期間限定のクーポンが出たときにお知らせメールが届くのですが、お店によってクーポンのサービスをやる頻度がまず違います。まあこれは仕方が無いでしょう。集客のためにやっていることですからね。
駅前で客の出入りが良い店舗よりも、車じゃないとちょっと行くのが面倒な店舗のほうがクーポン出す頻度が高いですね。
内容も違います。クーポンには「新作DVD半額」「旧作・準新作CD/DVD半額」「全CD半額」「全DVD半額」など、いろんなパターンがあります。
このパターンも、もともと儲かっていそうなお店ではあんまり良いクーポンを出しません。
ぶっちゃけて書くと津田沼のモリシアのお店。
一方、同じくショッピングモールの中にあるビビットスクエア南船橋店(ららぽーとの隣)は全然ちがいます。
たとえば:
- 南船橋店はいつでもCD/DVDが5枚で1,000円で借りられます。しかも最大泊数で。(旧作なら7泊、新作なら2泊)
津田沼店にはこれは無いく、代わりに毎週水曜日だけ安く借りられます。 - 南船橋店では今回、輸入盤CDがすべて100円レンタルしてましたが、津田沼店では通常料金でした。
ビビットスクエアがいまいち盛り上がっていないから頑張っているのかなとも思えますが、それ以外にも以下のような違いがあり、僕は南船橋店のほうが圧倒的に好きなのです。
- 南船橋店のほうが店舗面積が広く、内容が充実している(ように感じる)
- 併設されている書店の品揃えが南船橋店のほうが良い(すばる書店。津田沼店の併設書店は、ツタヤ書店)
ちなみに、本の扱い方はどちらもあまりよろしくないw - CDを借りるとき、店によっていろんな形式があるようです。
(1) 南船橋店:CDケースを半透明のプラスチックの入れ物から出して、裸のCDケースをレジに持っていく。
(2) 津田沼店:CDケースサイズのカバー(ビニール製)に入ったCDケースを、そのままレジに持っていく。
(3) 夏見台店:CDジャケットと一緒に、裸のCDと歌詞カードだけが入っている薄いビニール製のCDケース(不織布入り)があり、それだけ抜き出してレジに持っていく。
これは(2)が圧倒的に不便。なぜなら、CDケースが入っているビニールのカバーが、ものすごく出し入れしにくいのだ。最近は慣れたものでツタヤの店員に近い速度で出し入れできるようになってきたが、中には標準のCDケースよりも大きかったり小さかったりするケースもあるわけで、このカバーがブカブカだったりキツキツだったりして、端っこの方が切れかかっていることもある。また、ツタヤはレジでCDの盤面を一枚一枚チェックしてからレンタルしてくれるのだが、(2)だとビニールケースに出し入れするのに手間がかかる分、長く待たされる。
(3)は手荷物が最小になる意味では素晴らしいが、CDジャケットが歌詞カードと一体化していない特殊ケースの場合、表紙の白黒コピーだったりジャケットが無いことが多い。するとiTunesに取り込んだとき、アルバムジャケットのデザインが分からなくて困る。(僕はすべてのアルバムジャケットを設定するので、非常に困る)
また、(2)の場合だと棚になにも残さないので、探しているCDが見つからない場合、在庫として存在しないのか、レンタル中なのかが判断できない。
(1)と(3)の場合は残骸として(1)CDケースのケースあるいは(3)CDケースそのものが残るので、わかりやすい。 - 借りたCD/DVDを入れる袋。
(1) 南船橋店:CDケースがだいたい5枚くらいぴったり入る小さい袋と、もっとゆったりとしたトートバッグのような袋の2種類がある。
(2) 津田沼店:CDケースがだいたい5枚くらいぴったり入る小さい袋だけ。
(3) 夏見台店:ジッパー付きの袋がある。
これも店舗によって違うのはなぜでしょう。特に納得がいかないのがまたまた津田沼店。10枚借りると小さい袋がふたつになるんですが、この袋がまた取っ手が小さくて非常に持ちにくい。他のお店だと大きな袋にまとめてくれるのに。
とまぁ、違いをだらだらと書いてみたわけですが、結構違いますよね?同じTSUTAYAなのにね。
ま、どうでもいいっちゃいい話なんですけどね!
今日はツタヤのあとにブックオフ巡りもしてきました。
古本いいですね!ハードカバーが100円とか、本当にいいの!?って思っちゃいますw
図書館いけば無料で読めたりもするんですが。
保管場所のこと考えると文庫のほうがいいんですけど、ハードカバーのほうがなんとなく嬉しいです。
振り返ればアレがいる
2月 20th
このブログを始めてから10年になる。久しぶりに一部を読み返してみた。
サーバの移行だとかデータの移行だとかソフトウェアのアップグレードだとかで失われてしまったデータも少なからずあるが、自分が過去に何を考え、悩み、行動してきたのかを思い出すのには十分なだけの記事が残っている。
中には今読んだら恥ずかしい内容もあるけど、自分ってこんな事考えていたのかと感心(?)してしまう内容もある。
だから敢えていま、過去の記事を隠してしまおうとは思わないし、改竄しようとも思わない。
あるがままに、そこに置いておく。
血がでるほど歯を食いしばっている時期の記事を読み返すと、当時の苦悩が鮮明に思い出される。
まだ見えていなかった何かに対して感じていた恐怖も、今となっては「若かった、何も知らなかった」と微笑ましく回想できる。
当時の記事は、間違いなく同じような道をいま歩んでいる、歯を食いしばっている若者たちにとって力になる言葉に溢れている。
いろんなものを乗り越えてきたからこそ現在の自分があるのだが、その過去をこうして振り返り、反省している。
今の自分はちょっとだけ、いやかなり堕落している。
人間性はそう簡単に変わるものではないから、引き返せないレベルにまで堕ちているわけではない。
むしろ、過去によって積み上げられてきた現在の自分は、期待以上の成果を叩き出してきたし、いまもそれは毎日の仕事に反映されている。
足りない部分に気付かされるほうが、やっぱり多いけど。
年を重ねるごとに、自分の可能性を限定してしまうのは、「年」を意識してしまう自分自身であることを痛感する。
20代だって30代だって40代だって、90代だって、遅すぎるということはない。
ただ、人生全体の設計図をどのようにうまく描くことが出来るかということでしかない。
不可能と言い切る人は、可能にするためのフローを描くことができないだけだ。
可能にするためのフローが描けない理由は、経験と考察が不足しているだけだ。
考えることで人は前進するための道筋を立てられる。
そして実際にその道筋を歩いてこそ、人は前進する。
変化に慣れていない人は、テンプレート化された設計図の山をいくら漁ってみても答えがないからといって、「不可能」のレッテルを貼ってしまう。
他人事だから否定する人が少ない。同じ穴の狢は肯定する。
肯定も否定もしない人から意見を引き出すしかない。それができなければ、自分で考えろ。
最近の自分が、ひとつの型にはまりかけていることをひどく実感した。
この危機感こそが、次なる行動へのエネルギー源となる。
型にはまることは楽だ。
型にはまらない行動をすることは大変だ。型にはまらない考えを起こすには「きっかけ」が必要だ。
その「きっかけ」がない生活に嵌り込んだら、抜け出すのは無理かもしれない。
誰だってリスクは怖いし新しいことは不安だし、ただしいかどうか分からない行動は怖い。でもそれをあえてやってみたら突き抜けることができる。
突き抜けられなくても、今いる場所からは少なくとも抜け出すことができる。
安定にしがみつく心がこうした行動に対する意欲を阻害する。
でもよく考えてみよう。答えはひとりでも出せるはず。
変化のための行動、前進のための行動をとっているように見せかけて実はとっていない人も結構いる。
違いは何か?
目標の有無。
目標は何だっていいけど、自己完結型だと途中で終わる。
こうして考えて行くと、結局行き着くところは命の大切さと、自分のかわいさということになる。
死を恐れる人間には、何も生み出せないのだ。
結論。最近、死を恐れるようになってきてしまった自分を認識している。しかも何の根拠もなく。
危うかった。今日これをリセットする機会が得られたのは非常によかった。
機会を与えてくれたのが、自分が過去に書き綴った駄文だったとは、少しはこのブログを継続してきた意味があったのかなとも思う。
たぶん何を書いているのかわからないと思うが、この記事はまた、未来の自分に向けてマイルストーンとして書いているものだ。







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