以前から日本に住むことにこだわりは無かったけど、最近とくにそう思う。
日本って本当に住みやすい国なんだろうか。
便利であることは幸せなことなんだろうか。
日本で堅苦しい価値観にとらわれて生きるということが、自分をとても狭い世界に閉じ込めているような気がする。
日本にいるとなぜか、他人にどう見られてるかとか、どうでもいいことばかり気になってくる。
人生ってそんなもんじゃないんじゃないの?
世界は広い。言葉でそう言うのは簡単だけど、それを知っているのと体験するのではまったく違う。
「やっぱり日本がいいよね」って言うけど、本当にそうなんだろうか。
高い賃金をもらえても、生活費も高い。
なにもかも手に入るっていうけど、実際には限られた世界で限られた情報の中で、限られたものを与えられてそれで満足している。
そして世界で何が起こっているかを真剣に見つめることなく、他人事のようにして生きていく。
世界中どこにいたって、幸いインターネットが普及しているおかげで、日本にいる知人と連絡がとれる。問題ない。
日本のよいところってなんだろう。
いまは、おいしい和食が食べられることくらいしか思いつかない。
日本って、そんなに魅力のない国だったんだろうか?
海外で日本に憧れる人のほとんどは、その経済力だけを見ている。
でも国の経済力と個人の経済力は別の話。
どこにいたって、お金持ちはお金持ちだし、お金もってない人は持ってない。
日本語が通じること: 英語が使えれば問題ない
安全: 日本の安全神話は終わった。もっと安全な場所は世界中たくさんある
やっぱり、移住したいな。
書いてみてから、ちょっと補足。
日本にはいいところがたくさんあると思います。
とくに日本人が持つ魅力はたくさん思いつきます。
上記の記事で書きたかったのは、日本のいいところをもっと伸ばしたいとか
日本人として生まれて良かったなと思える社会になればいいなという気持ちです。
何事に対しても効果のない文句を繰り返すのではなく、行動しようよ!みたいな。
日本のいいところは、日本を離れているとたくさん見えてきます。
それらを、世界に対してもっと発信したいですね。
今の日本はある特定の分野以外で精神的な鎖国をしているような気がします。
コメント
うずらさんの言う「精神的な鎖国」っていうのとはちょっと違うかもしれないけど
最近、日本国内でバックラッシュが激しくてなんだかイヤですね。
「日本に誇りを持つ」っていうことと「日本以外を見下す」っていうのが
なんだか一緒になっているような印象を受けます。
自分が思ってるよりもバックラッシュ派って多いのかなぁ、とか。
あとは元ダンナみたいな(笑)「世論に簡単に巻き込まれる多数派」が
バックラッシュを形成してるみたいでちょっと怖い。
ワタシは日本以外に行ったことがないので、海外に移住しようとか思ったことはないのですが
最近の日本はなんか怖いです~。ものごとを単純化しすぎているようにも思えます。
そもそも管理社会の行き過ぎた現在の日本は、世論操作しやすい国だよね。
しかもそれを意識していない人があまりにも多いのが怖いです。
戦後の日本は、国際社会において自身の身の置き場を確保するのに大失敗し続けている国だと思います。
たしかに行き過ぎたaffirmative actionはバックラッシュですが、ルールを決める人たちが過去を引きずっているからこそ、バックラッシュ的な是正が行われてしまうのでしょう。優遇するから許してね、みたいな。確かにそういう措置は物議を醸しやすいですね。視点によってはバックラッシュと捉えられても仕方ない。
たとえばアメリカでヒスパニック系やアフリカ系アメリカ人が進学しやすいように、彼らの入学試験の点数に対してaffirmative actionをとっていましたが、これは逆差別だということで現在はほとんど廃止されている。
同和問題にしても、同和地区に住む人だけがもらえる補助金によって色々と問題が出ている。
でポイントは、これはバックラッシュだとかそうではないとかいう論議が外部の人間たちによってなされている点だと思います。本人たちにしか分からないことがたくさんあるのに、マスコミやブログなんかでみんなが好き勝手なこと言ってるから、収集がつかなくなる。
お金なんか絡んできたら、もう止められない。
そんな混沌とした状況に便乗しているのが、affirmative actionによって既得権を失った人たちではないですかね。彼らにとっては措置が適正だったかどうかなんてどうでもよくて、元に戻ればそれでいい。
で、巷に出回っている偉い人が書いたり言ったりしている理論で武装して、勝手なことを言って回っている。
日本に誇りをもつとか他国を見下すとかいう問題は、もともと近隣諸国が対日本政策のために過去を持ち出すという作戦に、まんまと乗ってしまう日本側の問題もあると思います。
日本が勝手に失敗してるのをバックラッシュと呼ぶのは、自国に誇りをもつことと矛盾しているような気がしますが、どうなんでしょうか。
まあ、がたがた言ってる人には、そんな理論より先に行動しろって思いますね。
あー、ワタシ「バックラッシュ」っていう言葉の使い方や定義を知らないまま、中途半端な知識で使ってたかもしれません。
ごめんなさい。
affirmative actionとバックラッシュの関係がわからない~。教えてくださいー。
ワタシの中では、安易に「昔は良かったんじゃ」(意味なく年配のおじいちゃん口調)っていうようなイメージだったのですが。小林よしのりの本がベストセラーになっちゃったりとか。あとはワタシの興味深い分野で言うと母性神話の復活とか、そんな感じ。
えーとaffirmative actionは、差別を解決するためにとられる方策のことで、政策だったり行動だったりします。で、それが行き過ぎると「逆差別」として捉える人がいるわけで、それに反発することをバックラッシュと呼ぶらしいです。
小林よしのりってゴーマニズム宣言の人だよね?
憂国主義にしても「昔はよかった」=「今の日本に満足していない」
何に満足していないかにもよるけど、母性神話なんかがいい例で、バックラッシュすることで楽できる(と考えている)男性が多いのだと思う。真剣に、科学的にアプローチしてほしいもんだ。
それに、今のほうがいいっていう人も勿論いるわけで。そういうのを無視してバックラッシュに同調していくと、結局ふりだしに戻る。
母性神話とか三歳児神話の場合、男女平等にするための男女雇用均等法とか、ジェンダーフリーっていうのがaffirmative actionに値すると思うんだけど、それらの現状を逆差別として捉える人たちが、バックラッシュを助長させているんでしょう。
前コメントで「論議が外部の人間たちによってなされている」って書いたのは、母性神話を語れるのは、本来は母親を経験している人たちだけじゃないの?ってことです。
母親になったことがない人(父親も含む)が、どうして語れるのかが理解できない。
多くの人は、「利己的行動」を「バックラッシュ」という言葉にすりかえることで主張しやすくしているだけだと思う。
自分の主義を持つのは勝手だけど、押し付けられるのはたまんないよね。
あー、affirmative actionとバックラッシュはそういう関係だったんですね。私は全く(でもないか?)別のものとして認識しておりました。
でもジェンダーフリーとか男女雇用機会均等法はaffirmative actionなんでしょうか?
affirmative actionって例えば人口の男女比と同じになるように議員の男女比を設定したりするような政策ですよね。前提として「男女比が5:5なのに、議員の男女比は9:1でおかしい」というような仮定があったとして、仮に男女が5:5だったとしたら、投票の結果当選者の男女比が7:3になっていたとしても、男性の当選者と女性の落選者を入れ替えて5:5にする…というような。そしてそれはある程度暫定的な政策であると、私は理解していたのですが。
少数民族から必ず議員を出さなくてはいけないとか。
日本の男女雇用機会均等法はそういう意味ではaffirmative actionではないのではないかと思います。暫定的であっては困るし。
あと「バックラッシュ」って、やってる本人たちは使わない言葉なんじゃないのかな。どっちかというと否定的に使われる言葉のように思います。
母性神話については、「母親を経験した人だけが議論できる」っていうのはかなり危険だと思います。「結局、子供産まないとわかんないのよ」ということになりかねない。女であり出産を経験していない私としては、そう言われたら何も言えなくなってしまうということになってしまいます。言わなきゃいいじゃねーかという反論も予想できますが(笑)。
母親という経験に限らず、内側からしか見えないこともあるし、外側からしか見えないこともあると思うので「議論が外部の人間によってなされている」ことに反対しているうずらさんには反対。外部だけじゃもちろんダメだと思うけど、内部だけでもダメだと思います。冷静になれないしね(笑)
あ、でも、「バックラッシュすることで楽できる(と考えている)男たち」というのには賛成、というか私もそうだと思う。石原都知事とかね。あの人既に楽してるけどさ(笑)。しかし「科学的に」アプローチするというのはそれはそれで危険だと思います。何をもってして「科学的なのか」って結構曖昧だし、母性神話も3歳児神話も「科学的な根拠」によるものだったと思いますし。
だんだん自分の興味ある方に話がずれていくわ(笑)ごめんなさい。
うずらさんと私のなかで「バックラッシュ」っていう言葉の定義が違うのが原因かしら。
うーん、母性神話については、そういう論理が社会進出したい女性のそれを阻む要因のひとつになっているとしたら、残しておくべきではないと思う。
つまり男性が女性を家庭に縛り付けておく理由になってしまうというところをポイントに考えると、AAの対象だと思うわけです。
それから
「結局、子供産まないとわかんないのよ」
について。
母性神話という言葉が成り立ってしまうことによって、本来の意味を超えてしまう部分に問題があると思っています。そういう影響を考慮できない限り第三者は積極的な干渉をすべきではなくて、意見を求められる必要があるときに出るべきだと思います。
ちなみに育児の問題ではないです。母親が子育てにおいて家庭でどういう役割にあるべきかという母性神話の核の話はしていなくて、その言葉が女性を家庭に縛り付ける口実になりつつあるということについてです。