ふと思い出してみると

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親の保護下にあった頃、ことあるたびに「自分が悪い」と、自分を責める傾向があった。
今もその傾向は残っているんだけど、その原因もまた自分にあると信じて疑わなかったのが、最近になってどうもそれだけじゃないなと思える視点を持つことができるようになってきた。

例を挙げてみる。

子供のころ、ある年齢から「家族とともに行動する」ことが苦痛になった。
祖父母の家に行くとか、親戚に会うとか。
だから一人で家に残ることがあった。
これに対して両親は、「当然のことができないダメ人間」のレッテルを僕に貼った。
自分自身、ひとりで家に残りながら、「協調できなくて自分のわがままを通すだけで、あまのじゃくで、どうしようもない人間だ」と自省して自己嫌悪に陥った。

「孫の顔を見られるだけでおじいちゃんもおばあちゃんも幸せなんだから行きなさい」

あまりにも多くの期待がその裏に見え隠れしていた。
会いに行けば、おみやげ話を期待された。
最近は学校でどんな実績をあげたとか、どんなに良い行いをしたとか。

当時は、なぜ家族のなかで自分だけ協調性がないのだと深く悩んだものだが、今はわかる。その期待感がプレッシャーになっていたのだ。
それから、当時からすでに「うつ」に似た症状が出ていたと思う。
とにかく何もできなくなることがあった。したくないんじゃなくて、できない。
それから、誰にも会いたくなくなることは、しょっちゅうあった。
一人にしてほしいと思うことが。

自分だけ特別扱いされるのも嫌いだった。

家にいるより、一人でいたり気心の知れた友達といるほうがずっと心が落ち着いた。

「友達と遊んでばかりいて」なんてよく言われたっけ。
家にいたくないから友達といるしかなかった。許される時間ぎりぎりまで使って。でも、当時の自分は言われたことをそのまま受け入れていた。「家族といたくないわけがない」「自分の家が落ち着かないなんて自分で認められない」という気持ちがあったのかもしれない。

なぜか家族はうまくやっているように見えた。自分以外。
家族と自分の間に、中学生くらいから薄い壁を感じるようになった。

期待されたことをクリアすると、褒められる。
褒められれば当然うれしい。
でも、褒められるためだけに生きているのは本当に疲れることなんだ。
期待されたことができなかったり、期待されないことをしたりすると、当然、叱責された。
ひどくつらかった気がする。

なぜ今になってこんなことを書いているのかというと、こんなことすら今のこの年齢になるまで気づくことができていなかったからだ。

全部自分のせいにすれば丸くおさまっていたから、それで引き出しの奥にしまいこんでおしまいにしていた。
しかし自分が真剣に心の病気と向かい合った時、それらの引き出しを開けずに過ごすことは不可能だった。

長男への期待と、その反動(失望)は、ものすごく大きなインパクトだった。

おそらく家族の誰にも理解してもらえないのだろうが。

不思議なことに、今になって当時のことがいろいろと蘇ってきて、妙に納得してみたり、なんて遠回りなことを考えていたんだと思ったり、当時の状況を客観的に見られなかった自分に腹立たしさを覚えたりする。

コメント

  1. あだち より:

          失礼します。
            Google にて拝見
       
        「困難に打ち勝つメッセージ」のご案内
           ご笑覧ください。
         http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/ 

  2. うずら より:

    あだちさん、ありがとうございます。