パラレルワールド・ラブストーリー

この記事は約3分で読めます。

物に触れれば、それぞれ手触りがある。
なんだか「自分」という「存在」が、今まで思っていた(信じていた?)よりも、だいぶ、というか、とてつもなく不確かなものに思えてきたから、「自分」と「物」との接点(?)がほしくて、いろんなものに触ってみる。
職場の下でやってる工事現場の片隅に転がっている鋼材に手を当ててみる。
ひんやりとしていて、赤い錆がざらついてて、ずっしりと存在感がある。
陽が当たっているところは、熱い。じりじりする。
蛇口を大きくひねって水の流れに手を突っ込めば、塩素まみれのH2Oが指の間をなめるように通り抜けていく。
圧力。痺れ。

こうして毎日感じているものって、いったい何なのだろう?
現実ってなに?
小さい頃は、現実って、もっと確かなものだったはず。絶対的なものじゃなかったっけ。
そのことについて、考えてみる。
それは思い込みだ。
ぼくたち人間は、「真実」をそのままとらえることができない。
真実のうえに、それはそれはもう厭になるくらいたくさん、何層にもオブラートをかぶせていかないと、それを自分のかかわりのある物事として判別することができない。
腑に落ちない。そうだよね。
「真実」を自己流に料理して「現実」となっていく。
そして「記憶」になる。
「記憶」はまた、「現実」をつくるうえで歪んだレンズのように影響する。
重い鉄の感触だって、冷たい水の感触だって、深緑の空気のおいしさだって、目の前のアスファルトがじりじり焼ける感じだって、そう。なにもかも、そうだ。
あいつが嫌いだとか、あなたのことが好きだとか、踵がかゆいとか、人生がつらいとか。

こうして今日も目が覚めて(目が覚めた気がして)、なにもかもを誤解しながら、誰とも永遠に共有することのできないパラダイムを抱えて生きていく。
そこには、楽しいことも、つらいことも、嬉しいことも、かなしいことも、全部ある。
それらはぜんぶ、自分がそう認識するところからうまれる。

現実のとらえかたの違いで、そこに物語がうまれる。
まったく同じ、寸分違わぬ人間がふたりいたら、そこに物語はうまれない。

この物語の主人公は、弱い。
自分でもそう言ってる。
本当に弱いなこいつ、って思った。
ちょっとイライラする。
でもそれが人間なんだよな。

他人と比較しないで、自分の価値観で生きることが大事なんて言う人がいるけど、
それでは君は自分のことがそんなにわかっているのですかと問いたい。
比較や対比がなければ、そこにはいったい何が残るというのだ?
「あなた」と「わたし」の違いは、なんですか?
比較することは、とても大事だ。うん。
ただ人間は、正確に比較することなんてとてもできない生き物だってことを忘れずに。
不確かなものに、とらわれすぎてしまったら、淀んでしまう。

(この文章は、レビューとして書き始めたものですが、ぜんぜんレビューになっていませんので、あしからずw)

コメント

  1. ちゃぼ より:

    東野圭吾のは一冊も読んだことないなぁ。

    面白いの?

  2. うずら より:

    東野圭吾はね、登場人物のセリフの語尾とか、ちょっとわざとらしいのが気になるんだよね。
    でもストーリーは面白いよ。
    この作品と「手紙」しか読んだことないんだけどw

  3. 福田浩司賞味大臣 より:

    何とかこんがらがりながら読みました。新しいスタイルの実験小説ですかね。最後は人間の偽善や自己満足の泥臭さが重く感じられた。ただ面白くすれるために悪意が誇張されてるかも、まあそれがエンターテーメント小説なんでしょうが

  4. うずら より:

    福田浩司賞味大臣さん、

    確かに、面白くするために誇張されているという意見は賛成です。
    僕自身、この本を読んでからしばらくたってしまっているのですが、都合のいいようなストーリー展開がちょっと気になりました。
    東野圭吾の作風なんですかね?