経営の柔軟性

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ときには、じっと耐えることも必要だ。

耐えるという言葉に苦痛があるのならば、己の問題であるということをひしひしと感じる。
なぜなら今の僕は耐えることに苦痛はないからだ。
それはまるで、サバンナの決闘で瀕死の重傷を負った野生動物が周囲を警戒しながらも、じっと身動きせずに回復を待つような心境だ。

自らの身体に残された様々なパラメータを確認する。
体力、精神力、注意力、……。

全回復するまでじっとしていればいいというものでもない。
必要なときに必要なエネルギーを使う。その一瞬一瞬の判断を、楽しんでいる。

攻めるときも、耐えるときも、全力だ。

なぜ耐えることに苦痛がないのか。
まず、耐えようと思えば永遠に耐え抜くことができる根拠なき自信がある。
すべての環境は万全だ。
さらに、前にも書いたように僕は今日が人生最後の日であると思って生きている。
常に明日はないから、明日に体力や心残りになるようなことを残さない。
就寝は死である。やり残したことには諦めの境地をもつ。
翌日目覚めたときはラッキーだが、前日に「やり残した」と思っていたことが、実はやらなくてもいい事だと気付くこともよくある。
まだやり残したと思えるのならば、それをやるチャンスが巡ってきただけのことだ。

じっと耐える。躍動力で攻める。
ときには反撃を受けたり、自分の配慮の浅さや実力の無さを見せつけられることもある。
それでも諦めるというオプションはない。
思い通りに物事が進まない気がするとき、人は無力感でダメージを受けやすい。
しかし簡単なことだ。別の方法を考えればいい。
考えつかなければ、じっと耐える。
その間、自分の身の丈に合ったことをすればいい。
自分の残されたリソースを最大限に使いこなす方法を考えればいい。
無いものねだりは己の心の弱さだと、つくづく思う。

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