Introduction
アンコール遺跡群は、時と空の関係性、つまり時空とは何かについて語りかけてきた。
大きな事象・小さな事象という対比をひとつのシステムの中に内包するということによって、意図的であるかのように生じさせられた矛盾。その矛盾こそが、両面性という言葉の摂理を知る上で欠かせない要素として関わってくる。
この、両面性の上にマッピングされたエネルギーの不均衡こそが、宇宙を創るエネルギーと呼ばれているものの正体であると感じる。広い広い概念を支えるシンプルさだ。
エネルギーというものは概念的な名詞でしかなくて、燃え盛る炎のようなイメージの枠を外したほうが理解しやすいように思う。先ほど書いた不均衡が存在するからこそ、表の状態、裏の状態、そして表でも裏でもない状態を持ちうる。これこそが平坦なる世界を平坦でなくする。それをエネルギーと呼んだり、パワーと呼んだりすることがある。ただそれだけのことだ。
それでは、そのエネルギーというものは一体何なのかといったら、そのものが生命をつくったり、状態をつくったり、錯覚をつくったり、様々なものを(三次元的に)見えるようにしたり、(見えなくするために)フィルタリングしたり、そういったものをすべて包含している、つまり宇宙であるということが確立されるのだけれども、今回、両面性ということに気づいたひとつのきっかけがプリヤ・カーンである。わたしにとってプリヤ・カーンは、ひとつの『誤解』と『思い込み』、そして『表層的なもの』、こういったものを取り外すべきときに初めて出てくるワードだった。
Thank you.
Angkor
このエネルギーを説明する様式がひとつの形として結実している場所が、地球上に何箇所か存在することを意識させられる。そこで存在について回顧する。存在とは、存在するというよりも存在させられているというほうがしっくりくる。さらに、発見されているという表現をすることができ、そのほうが誤解されにくいかもしれない。エジプトのピラミッドの構造、アンコール遺跡群の建物などの配置。構造やパターンや仕組みを「知る」ということは、存在するものを知識として与えられるという認識のしかたではなく、発見つまり初めて意識が投影されたものを確認するというところにキーがある。
日本にもこのような認識のパラダイム・シフトを促すものがあり、それを模倣したものも混在している。模倣は本来の形を尊重し得ないがために体験としては混乱を招くがために、時の権力者たちがそれを活用した可能性こそある。しかし常に、模倣ではない本物がある。再現と出口。静寂の価値。
Angkor Wat
まずアンコール・ワットについて語る。アンコール・ワットを説明する際に必要な形状がある。それは、数列です。何かと言うと、フィボナッチです。フィボナッチ数列の形状。フィボナッチ数列とアンコール遺跡を重ね合わせてみると様々な発見があります。
アンコール遺跡のなかでも最も有名なアンコール・ワットですが、この遺跡は「最初の発見」を象徴していると感じました。アンコール・ワットに朝日が当たるということが発見の象徴でした。暗闇の中から徐々に輪郭を表すその姿こそが、無から生まれくる新しい発見そのものでした。
その発見の中には3つの柱があります。遺跡の中に入っていくと、こんどは3つ回廊があります。この回廊を次々と内側に抜けていく、その道程がなぜか、井の中の蛙が大海に飛び出していくような感覚でした。内観を深めるということは、より広いインナー・スペースを知るということにもつながります。宇宙は内にも外にも無限に広がっているということを強く意識させられました。
新しい視点を獲得しないと内側に到達することができないわけです。両面性がもつ不均衡をきっかけに、さらに内面深くに到達する。それは夢の中の夢なのか、逆に多重化した夢から花びらを1枚ずつ剥がすように覚めていっているのか、どちらなのかよくわからない。おそらくこれはわかり得ないと思うんです。なぜならその方向性を意識した時点でパラドックスにとらわれてしまっているからです。
このようにして、どうしてもエネルギーを意識させられまます。エネルギーの不均衡を超えるには努力が必要というふうに信じている方がよくいらっしゃいますが。その努力とはなにかについて考えてみるのも悪くないと思いました。言葉にとらわれては先に進めない。それは、山を超えるのと同じであり、そこに対するエネルギーの開放っていうものは、苦しみを伴うように見えることがあります。そしてその苦しみを伴った先にあるものを見て、つまり未来の獲得。それのために努力をしてしまう人が多いですね。でもそうではだめなんですよ。それでは3つの回廊を越えることはできない。1つだったらもしかしたら可能かもしれない。努力して苦しみを選択してでも達成しようというのは、達成・成功に対する執着つまりエゴ(我欲)であるとわかります。
それは余談ということになってしまうので今回は割愛して、回廊の話に戻ります。
3つの回廊を越えると、中心には3つの柱があることが観察できます。しかし、それは幻想であるという捉え方をしてみると面白いんですね。その3つの柱というものは実は柱ではなくて、浮き彫りなんです。背景の空や雲こそが背景ではなくて朱で、そびえ立つように見える3つの柱は、絵を切り取る額縁のようなものです。その浮き彫りという感覚をもって景色を反転させると、アンコール・ワットの中心です。そこには、東西南北を向いた化身が存在する。その化身が何を護っているかというと、魂なんだなあと思います。魂の存在のために安定した距離を確保しているのが、3つの回廊。そこを突き抜けるひとつの直線的な道が、ナーガです。それこそが事象を時系列に並べる存在です。アンコール・ワットに向き合うというのは、わたしにとっては少なくともこういうことでした。
向き合うということは観察するということです。観察は発見です。発見は創造です。そう、アンコール・ワットが象徴しているのは、量子力学的な観察効果というところに行き着いてしまいます。観察をすることにより存在が確認されるわけですから。観察?……唯物論的な考え方を外して物事を捉えると、「光が当たる」。つまりこれは、観察を促すということですね。その観察を促すことによって存在が明るみに出るといいますが、これは、存在を自分が創造しているということになります。その存在を創造する、つまり確認することで想像力が刺激される。なぜかというと観察ということの両面性によって刺激されるからですね、お互いに。それが陰と陽。で、その後に乳海攪拌が起きる。けれども未来・過去・現在というものは同時進行している。つまり同時多発的に存在しているので、これは同時に起きているというふうに捉えることができます。
それは時間の概念というものがうまく言葉に落とし込めていないからこういう説明になってしまうのです。乳海攪拌という「イベント」を時間軸的に「そのあと」というふうに捉えて、そこでビッグ・バンという「イベント」が起きる。イベント・ドリブンな認識のしかたでは、時空のメタ化は不可能と思います。
Angkor Thom - Bayon
そのあと、アンコール・トムのコンプレックス(複合的な建築物の集合体)。なぜコンプレックス的になっているかというと、これはカオスの表現なんだなあと思うわけですね。そのカオスの中でも人気がある……人気があるというのも、必然である……バイヨンです。……ここにはトム(Thom)の顔がたくさんあります。つまりペルソナやモナドがたくさんあって、意識、つまり魂、ソウル、オーバーソウルといったものがいろいろとミクスチャーされていて、そこには優しさとか、喜びとか、悲しみとか、貶しとか、ポジティヴもネガティヴも境目なく混在します。
人によって、そこに騙しが存在する場合としない場合があることについて。騙しというものは、そもそも存在するのか。存在しないのであればそれは、そういうふうに見えるあなた自身の疑いの心であるということがわかる。騙しに限らず、すべての言葉にはそういった両面性がありますから、両面性の片側の側面だけに固執した意見をするということは、偏執的であるということを感じさせられます。
このようにして自他の関係性のなかで様々な光と闇を感じさせられたり、感じさせたり、それに気づかなかったり気づいたりという流れを生きて、やがてそういったすべての混沌、カオスの中から真実を見つけたいという欲求が生まれるんですね。その欲求が、アンコール・トムのコンプレックスの中心(バイヨン寺院)に引き寄せられる力になるように感じる。なぜかというと、中心、イコール、中核。核心。そういったものの象徴であり、これが重力の発生源であります。その重力のもとに行くと、一筋の光が射しているところに、象徴的な仏像(仏相)があり、そこには色々なものがあるわけですよ。例えば匂いとか。例えば風とか。例えば連想とか。
風の谷的な、そういった連想もあったかもしれない。
インド的なものもあったかもしれない。
生々しい匂いであるとか、激情とか、汚れとか。そういう神聖さとは関係がないように思えるものも関係があり、人の固定観念が邪魔をしていることです。ですから、経験せずに頭で考えてそれを結論にしてしまうことはとっても危険なんですね。
神聖いうものも、決してひとつの爽やかな風のように語られるべきものではないということが、そこに立った人間にしかわからないわけです。その生々しさと神聖さを併せ持っているのが、このアンコール遺跡の魅力だと感じました。そこから魅力を知る。魅力というものはただただ純粋に美しければいいというものではない。真の純白は、目に見えないんですね。ただの光ですから。純白があって、さらにそこに影があるからこそ可視化され、それが光と闇の織りなす美というものになる。ビーナスです。アフロディーテです。それらに魅せられるからこそ、創造がされていくわけです。ですからこれはバランスがとっても大事ということにもつながるわけです。
たとえばもし神聖な純粋性「だけ」を持った異性がいたとしたら、それはかなり近づきがたいもの……天使とか神みたいなそういう存在ですよね。自分と対等には見えない。
もうひとつ言えるのは、悪魔的なもの。ダーク。ダークネスだとか淫靡(いんび)であるとか。そういったものっていうのはものすごく惹かれるものがあるわけです。でもそれに対する拒絶する気持ちっていうのも、もちろん理性という形で存在しているのであって、そのバランスが絶妙にあると、そこには魅力というものがものすごい重大発見されるわけです。
その発見された魅力というものがどのような形であなたやわたしの魂に作用してくるかっていうのが、あなたの経験とか思い込みとかそういうことにつながってくるので、実は魅力がある人に対する接し方、もしくは話しかけ方、言葉の選択、思考、そういったものによってあなた自身の自己紹介がされてしまっているということにもつながるんですね。
ここがわかる人間からはわかってしまう。……ということがわからない。……わかる。……このループ。これがカオスです。
しかし祈りという一筋の光によって、そのカオスから脱する力を得る。カオスの中に秩序を見つけていくんですね。これがオーダーとカオスの対比。また両面性が出てきましたね。そうすることによって生と死というものが見えてくる。
Pre Rup
生と死の話が出てきたちょうどそこで、プレループがあります。アンコールの寺院です。あの赤茶けた、崩れかけた、独特の寂寥感をもつ風化した建造物。ここは、死すべき者が死した後、自分の死に気づかないため、死を気づかせるための寺院であるということです。
アンコール・トムというアンコール遺跡の中心に近い人気エリアの中にも、まだ整備されていない、人が入れない、そういう状態の遺跡が多数存在しています。この現在の切り口を即物的に捉えると、ああ〜修復されてないんだな、なんだろう、お金が無いのかなとか、人手が回ってないのかなとか、あまり修復優先度が高くないのかなとか、支援が足りないのかなとか、そういう風に捉えてしまうことが可能ですが、この現在という切り口そのものにもちゃんと意味があるように作られていることを感じます。アンコール遺跡というものは、その作られた時期から、今現在、そして未来に至るまで、すべて織り込み済みなんですね。だから今現在がこのような状態でわたしが観察しているっていうことにもちゃんと意味を見出してあげないといけない。そうしないと製作者の意図が見えないわけです。製作者って言ったらおかしいんですが。それは自分自身ですね。
そしてプレループによって、死というものの境界線がはっきりと定義される。それはまた、生というものの定義でもあります。魅力の定義でもあり、淫靡の定義でもあります。両面性の片側だけを選り好むことには何の意味もないということを強く感じます。
このプレループのあとに行くところが、タ・プロームです。
Ta Prohm
個人的に、ここで万物の摂理を司るルールの存在が明らかになってくるわけです。創造です。広がりです。これはもう、木々(ガジュマル)が建物の上を乗り越えていく、あの広さ、そして奥のほうのまだ発掘されていない遺跡の存在を感じさせるワクワク感というか、生々しい工事中の状態であるとか、建築の人たちがクメール語で何かしている。彫り物している人たちのカンカンカンカン・・・と響く音。生命そのものと多重化した世界が感じられます。地球上のいたるところで今おきていることのライブ感といいますか、太陽の光もさんさんと浴びて、より具体化された世界、そんなイメージでした。
Wikipediaより抜粋:
ガジュマルによる浸食が激しい。三重の回廊に覆われた遺跡には、文字通り樹木が食い込んでいる。あまりの酷さにインド政府はタ・プロームの修復計画を発表した(インドはタ・プロームの修復を担当している)。しかし、現在ここで議論が沸き起こっている。熱帯の巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論である。2006年10月現在、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続中である。
これ面白いですよね。あとから生えてきたガジュマルが建物を覆い、石を動かし、ときには支え、どっちがどっちを支えているのかわからなくなってしまっている。こういうのって最高だなって思うんです。
タ・プロームを歩き、半分修復されていないひとつの建造物を歩いていたとき。行き止まりのように見えて行き止まりではなかった暗闇の中に、小さい男の子とお婆さんが腰掛けていました。そのお婆さんがわたしの腕にかけてくれたお守りは、呪いに対抗するための神聖なる力、与えてくれた力だと感じました。
それが右腕に、つまり神の手に宿っているわけです。ここで左右という概念について。右と左が入れ替わる、つまり左脳と右脳がそれぞれ右半身・左半身に交差するようにつながり、身体をコントロールしている。これこそが鏡(両面性)ということにも繋がり伝わってくると個人的には感じるわけです。つまりお守りが右手についているってことは、神でもあり悪魔でもある。何を言いたいかというと、つまりどちら側が何ということにあまりこだわりを持ちすぎると、視野が狭窄して本来の姿が見えなくなってしまう。マイナス1なのか1なのかというところにこだわってしまうと、その間の状態つまりどちらでもない状態っていうのが見えなくなる。「値がマイナス1のときのグラフ」と、「値が1のときのグラフ」という、概念化されたグラフの構造について考えてみたときに、双方の対比だけでなく連続について考えを巡らせることで、さらに1つ上の構造体が見えてくる。しかし、それで終わりではないんです。それをまた多次元化しなければいけない。そうやって無限に折り重なっている・折り畳まれているものを展開したり、折り返したりしていくことによって、真実の姿っていうものがだんだんと自分の中で見えてくる。それが、腑に落ちるということであり、経験を知識で説明できる状態と言うこともできます。ただしそれは、ある特定の条件下でのみ有効であるということを忘れてしまうと、とたんに「驕り」というドグマにとらわれて、真実性を失い、信頼も堕ちます。
誠実に事実に向き合い、概念を把握する。それをただこの人の世の言葉で表現してあげればいいだけのことですね。現代においては、科学という枠組みで用意された言葉で表現することを好む人が多いです。
The Big Circle
これで創造の旅が終わるように見えるけれども、それだけではないんですね。今度は内なる、自分の信念というものの旅が、大きな円というところで存在する。内面を見つめるための外面があり、外面を見つめるための内面があります。大きな旅です。
その大きな旅を始めるためには、中庸が必要です。
今回の旅において中庸の調和を得るイベントがありました。それは、シェムリアップでのタクシーの運転手との値段交渉というところにつながってきます。その値段交渉につながるためには、その前日の旅……船に乗ったりだとか、嘘に怒ったことだとか、そういうひとつひとつの流れが必要だったことを強く感じます。その流れを簡単に説明すると、対等の関係性とか、信頼とか、交渉とか、コミュニケーションとか。そういったものがすべて試された結果として存在しているものが広がっていく。ただ単純に値段を交渉すればいいだけというわけではないし、そこで成功しなければただ表層的なものだけを見る観光で終わってしまうんだなと理解しました。
まだ表面が削られていないアンコール遺跡。
アンコール遺跡群は今から千年くらい前、西暦で言うと、900年代から1200年代を中心に建築されたと言われていますが、実際にはそうではないのではないかと思いました。この遺跡は発見されたり、放棄されてまたジャングルという自然の猛威のなかに埋もれたり、再発見されたりを繰り返しています。また、その時々に主流だった宗教に合わせて、建物の表面に彫り込まれる神々の姿も変化してきました。仏教の神々だったり、ヒンドゥー教の神々だったり。さらには、クメール・ルージュの砦となった時代もあったり、宗教弾圧で(と言われていますが)仏像の顔の部分や上半身だけ破壊されたり、金目の仏像は盗まれて売られただとか、嘘なのか本当なのかわからないような話がたくさんありますが、ひとつ言えることは真実を実際に見たものはいま生きていないということですね。
この地で顔のない仏像や胸像をたくさん目にして、「頭を外すこと」の大切さの教えについて読んだことを思い出しました。頭で処理しないこと。頭で処理すれば、いかようにも処理・証明できてしまう。論理は自在であると同時に、混沌である。ものごとの決断は論理ではなく、直観・意思・希望といったもの、つまり頭ではなく心でなされるものだ。
アンコール遺跡の表面を飾る石を外したとき、穴だらけの茶色い岩が出てくる。崩れかけた部分からよくそれが顔をのぞかせている。あれがいつの時代のものなのか。表面の石ですら、本当にたったの千年前のものであるのか。わたしは、そうではない、という思いでいっぱいだ。エジプトのピラミッドやインドで見てきた遺跡群の数々。石でつくられた古代遺跡たち。アンコール遺跡群は、8千年、9千年、1万年。いや、もしかしたら1万2千年。そういったレベルでの古い遺跡に見える。ジャングルの奥にまだ発見されていない、眠る遺跡がたくさんあるらしい。さらに古いものが存在する可能性っていうのは想像するだけでワクワクする。本当にびっくりするようなことがあるんじゃないでしょうか。
……大きな円を巡る旅は、最初は混沌から始まるんですね。目的がわからないという。つまり使命を忘れた状態で生まれてくる人間と同じです。で、だんだんだんだんそれが霧が晴れていくように見えてくる。最終的にだんだんそれが確信に変わっていく。
Ta Keo
放棄された孤独。静寂。そして、平和。なかなかよかった。
ここで一段落することができました。
Neak Pean
ナーガ神殿(ニャック・ポアン)にたどり着いたときに、祝福の雨で迎えられました。同時に、絶景です。そして象徴。仮想現実。ゲームの世界のようでした。こんな例え方をするのって笑えます。ゲームのほうが仮想なのに。(ほんとかな?って思っちゃうところが、かなりやられてますが)
ほんとに、超リアルなCGのゲームみたいでしたよ。そこで橋を渡り、洗礼を受け入れることによって雨が止む。遠雷が響き、クメール音楽が流れ、祈りの声がどこからともなく聞こえてくる。そして雲によって太陽は虹になり、最終的な表層の旅を終わらす。内面にダイブする。準備が整う。
Preah Khan
今回の旅の最終目的地。プリヤ・カーンという、ひとつのゲート的な存在です。中央を流れる川。音楽、祈り、遠雷。確信を確信する力。エネルギーの循環が起きてきているということがわかります。
奥の寺院では写真を撮らないと決め、ここでまた乳海攪拌を象徴する橋ですよ。
デジャヴです。ここで何を天地創造しているのかというと、おそらくは初めのものと異なり、新しい世界の創造、リ・クリエイションです。再創生です。
リクリエイション、つまり、Joyです。
楽しさです。
ワクワクですよ。
そりゃそうですよ、ワクワクするようにできてんだから。そういう存在なんだから。
そんな気持ちで満たされる。
エネルギーの両面性とかアンバランスとかによって生じるこの世界の混沌。
そしてそれの秩序化。
そのループ。
それに携わったり関わったりそこから経験したりその経験自体を創造したりするっていうこと自体が、美なんですね。
Joyなんですね。
そして、……Loveなんですね。
ここで左右を見るなという神の啓示を受けて、真っ直ぐ向ける。そこで邪(じゃ)【邪 ... 蛇】を捨てる。邪(よこしま)を捨てるわけです。ヨコシマってヨコって入ってますから。そして振り抜いたら、もう一回(来た道を)戻る。どっちに向いたときもその中央の東西南北に通じる廊下の中にあるアンテナのようなものには、すべて自分のプロテクションを4方向に張るという象徴的な行動をとりました。
そして、抜けた。突き抜けた。
これがアンコールワット、アンコール遺跡群の旅の話です。
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コメント
[…] always,アンコール遺跡の旅https://klavier.jp/blog/2018/07/12/30278/Introductionアンコール遺跡群は、時と空の関係性、つまり時空とは何かについて語りかけてきた。大きな事象・小さな事象という対 […]