波と現実

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2年前にみた銚子の海。

海を眺めながらいつも思うことは、波(波動)は可能性であり、それは複数の可能性の重ね合わせでもあるということ。

さらにその複数の可能性が収束する超シャープな { 1点 | Zero Point | 現在 | 時空の境界面 } に事象が { 出現する | 物質化する | 実体化する | 粒子化する } ことを観測と呼び、構成要素すべてが量子(あるいはそれに準ずる、同様の性質を持った何か)によって構成されているのであれば、五感が得る眼前の世界があたかも悠久の過去から定められ存在したものに見えるのは錯覚であり、存在が先にあってそれを観測したというのは完全なる思い込みであり、目の前に入ってきているものすべてが { liveである | 生きている | リアルタイムである | この瞬間の切り口である } ことから、現在という観測には過去におけるいかなるものもリファレンスとして存在し得ないということがわかる。ところが人は、向こうから飛んできたボールが目の前にあるから、次の瞬間にはそのボールが自分にぶつかるだろうという予測をする。これは脳が本来持っている予測ではなく、経験から導き出される { 思考の | 判断力の | 学習の } 癖である。

粒子の視点から説明する「波(波動)」は、粒子がまだ観測されていないときに実体化する可能性のある座標すべてのマップそのものだ。観測した瞬間、ひとつの座標が選択されて実体化する。

3次元世界における波動とは実際には可能性を示す球状の雲のような表現となる。それは時空という軸を追加すると、4次元的な螺旋構造となる。この事実は、次元をひとつ差し引いて想像するとわかりやすい。

これは量子のスピンを考えるときにも欠かせないものの見方であるし、太陽系の惑星の軌道も同じようになっている。天の川銀河を周回する無数の太陽系の軌道も然りだ。

ここで皆さんに考えていただきたいのは、粒子pがある座標Aに実体化する可能性と、異なる座標Bに実体化する可能性が異なることを「波」は示すことになるのですが、ではその「確率の違い」がもたらすものは何かということです。よく混同されるのは、ここで多くの人は無意識に多元宇宙を容認してしまっているんですね。なので、粒子pが座標Aに実体化する宇宙と、座標Bに実体化する宇宙を俯瞰的に(客観的に)想定しています。それは、枝分かれする宇宙を樹木に例えてみればおそらく枝の太さに相当する部分であり、間違ってはいない想定です。ところが、自分という { 主観 | 主体 | 自我 | 魂 } が体験できる宇宙はひとつであるということを考慮すると、そのような確率に何の意味があるのかということになります。なぜなら主体にとっての現実は常にひとつでありますから。

宝くじの1等賞に当たる確率がどんなに低くても、当たる可能性が無いのとは違うということで、当たるという人生の岐路を選択する可能性があるということです。
それでは、選択とはいったい何なのでしょうか。

選択をする主体であるわたしたちには、意識がある。少なくとも、そう思い込んでいます。そして選択の自由があると思い込んでいる。
ところで、宝くじに当たる人生もあれば、当たらない人生もある。ということは、あなたが宝くじに当たった宇宙と、当たらなかった宇宙があるという捉え方も可能ですね。そのようにして、すべての可能性というものを考慮していくと、すべての存在しうる可能性が瞬間という切り口に提供されているという事実だけで、無限が広がっていることがわかる。

わたしたちの意識は、そこからひとつだけ選択しているように感じる

その選択は、全体からみれば調和しており、すべての可能性が宇宙として存在するのであれば、そこから意識がどのレベル(波動)を選択するのかは、何によって委ねられていると思いますか?

これが、意識意志という存在の話につながってくるわけです。

意志とはいったい何でしょうか。
あなたはなぜ、その選択をしたのでしょうか。
あなたはなぜ、その相手をパートナーに選んだ?
あなたはなぜ、昨日の夕食にあの料理を選んだ?
あなたはなぜ、いま鼻の頭を掻いた?
あなたはなぜ、その場所に行こうと思った?
あなたはなぜ、それが好きだと思った?
あなたはなぜ、好き嫌いがある?
あなたはなぜ、自分の意志で物事を選択していると思いこんでいる?

あなたは、自分の意志で「好き」「嫌い」を決めていない。論理では決められない。
では、好きとか嫌いという感覚は、どこから生まれてくるのでしょうか?

この写真をみて、気持ち悪くて吐き気がするという人は、どれくらいいるでしょうか?
この写真をみて、気分がよくてすっきりするという人は、どれくらいいるでしょうか?
この写真をみて、陰湿で見るに堪えないと思う人は、どれくらいいるでしょうか?
この写真をみて、明るくていい感じと思う人は、どれくらいいるでしょうか?

可能性のなかで選択できるものがあるとすれば、それは常にわたしたちの感情と切り離すことができない。それが生き物です。
猫が嫌がっているものを食べさせるのは非常に困難です。

感情の発生のしかたについて詳しく観察をしてみると、面白いことがわかってきます。そう、それも観察であること。

行き着く先は、、、

「わたし」って一体だれ?
「わたし以外」って何?

こうしたことを、座学で(頭で)理解するのではなく、体感的に腑に落とすことが、次のステップに進めるために必要な学びです。

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