ものの道理というものは、いたってシンプルなんだけど、思考ベースにエゴが混入しているとどうしても難しく感じてしまうものだ。
曲解する人、曲解を意識できていない人、意識できていて悪用しようとする人、いろんな人がいる。
因果応報というものは、最近もてはやされている「引き寄せの法則」を異なる表現であらわしているに過ぎない。
すべての出逢い、環境、周辺にあるもの、人、いのち、輝き、影、木々、空気、景色、音、ささやき、せせらぎ。
偶然が存在しないということを受け入れたときに、はじめて理解できるもの。
たとえば何かショックなことがあったときに、それをなぜショックだと思うのか?それは自分次第なんだけれど、なかなかそう受け止められない「自我」がいる。
すべての因果が調和しているということは、確信していることにおいて不幸は生じないということなんだ。
本当になにかを求めているとき、それは何を求めていることなのかという本質に向き合うことを忘れないようにすること。考え抜くこと。ときにはすべてを手放して、はじめから整理しようとする勇気。しがみつかないこと。
わかりやすい例えとして、プログラミングの独学がある。
「正規の教育」とは一体なんなのか。考えたことありますか?
プログラミングに「正規の教育」など存在しない。すくなくとも、今まではそうだった。
それが、もうすぐ全国の小学校でプログラミングが必須科目になるらしい。
それで皆、てんやわんやしている。
それをビジネスチャンスだと捉えてる人もたくさんいる。
うちの子ちゃんとプログラミングなんてできるかしら?って不安に思った親が集まって、どう対処するべきか、噂が噂を呼ぶ。
プログラミングの教室、いいところがあるんですってよ奥さん。
「プログラミング」ってそもそも、何?
そういう超ベーシックなところは置いてけぼりのまま、いろんなことが勝手に決まってく。
東洋経済の2018年7月21日号で、子供向けプログラミング教育の特集が組まれてる。
読んでておかしいのは、全記事を通して、「どのプログラミング言語を教えているのか」という記述が、ほんの数箇所しか無いのだ。
プログラミング言語は、人間の言語(日本語、英語など)と同じように、さまざまな言語がある。
人間と機械が意思疎通をするための言語なのだ。
機械に、自分がやってほしいことを正確に伝えるための道具が、プログラム言語だ。
どのようなシーンでどのような言語を使うと効果的なのかといったセンスも当然ながら、プログラマとして求められている素質。
さらに言えば、プログラミングができるようになることが目的になるのはおかしいと僕は思っていて、コンピュータにやらせたいことがあるから、それを実現するためにプログラミングするというのが自然な流れだ。
自分で自動車を操ってどこかに行きたいという目的があるから車の免許を取る、というのと同じだ。
詰め込み教育は、そういうところを無視してしまう。日本はこうしたことを、息をするように簡単に間違える。
そう、プログラミングをただ覚えるだけではいけない。楽しさを知ってもらうことが大事だ、とかいいながら、楽しさを子供自身に見つけさせようとせず、大人が提供してしまうのも問題だ。プログラミングができると、こんな楽しいことができるよ!とか。
それこそ、子供に考えさせなければ意味がないところだ。
そしてそういうことを考えることができる子供は、教育ノウハウなんかで簡単に育つものではない。短期集中講座、合宿、そんな付け焼き刃でどうにかなるなら、誰も苦労しない。
そういうベーシックなところこそが、日々の暮らし方や考え方、生活、家族とのふれあい、様々な要素で育つ感性と深くかかわりあう。理屈だけでは人は決して成長しない。
そろそろそういうアホらしい矛盾から抜け出そうぜ、って思うんだけど、理屈でやることに慣れてしまっている人はすぐにこの罠にハマってしまう。そういう大人が多すぎるところも問題なんだろう。でもさ、やるしかないんだぜ。
ロジカルに物事を考えられない人が大人・子供問わずに増えているのは、余計なことに処理能力を奪われてしまってる人があまりにも多いからだ。余計な処理は外さないと、大事なことに脳が使えない。
ロジカルに深く、深くはいりこむためには、決して動じない集中力と、機会を手にする感性と、状況を変える判断力と、じっくり見据える忍耐力など、いろんな要素が必要だ。
とにかく、我慢はよくない。いろんなことを当たり前のように我慢しすぎてる人が多すぎる。
まずはその我慢というループからどうして抜け出せないのか、考えてみたらいいと思う。
考えるということを忘れてしまう前に。
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