誠実さと言動の切っても切れない関係

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嘘、不信、欺瞞。

一般的にこうしたものは意図的に表現しない限り他者に伝達しないと思われている。嘘をついていること、信用されていないこと、そして欺瞞に満ちた心をすべて透かして見えるということに物心ついた頃から慣れているということは、決して超能力者の漫画やアニメのようにはいかない。

なぜなら人の「思考と言動が違う」ということが生まれたときからごく当たり前のように存在する中に生きているから、嘘・不信・欺瞞を持っている人をごく当たり前と受け容れてきたからだ。
ただし決して自分だけはそういうことをしたくなかった。
けれども、この社会で誠実を通し、表裏なく生きることは困難だったため、妥協することを教えられてきた。その妥協をすると一時的に問題は解決したかのように見えるが、自分が汚れていくことがより大きな苦痛となる。僕はそれに耐えられない人間であることを何度も何度も思い知らされた。

それでまた、あえて無理に身に着けようとしてきたものを捨てたのだ。

率直に言って、現代人の心は相当に汚れている
息をするように簡単に矛盾したことを口にする。嘘を吐く。
人の言葉の欺瞞を跳ね返すと、覚醒のない相手にはそれが僕の欺瞞に見えるようにできているらしい。

例えば、陰口について。
こそこそ裏で言ってても本人に伝えなければ意味のないことを本人のいないところで話すことを陰口というが、その核心は「本人の前で本人に向かって同じことを言えるかどうか」である。
本人に言えることを誰かに伝えているのであればそれは本人に伝えた時点で陰口とはならない。
しかし本人に明かさずにいればそれは陰口であり、邪道だ。

その邪(よこしま)を感じ取ることができてしまう自分は、物心ついて日本語を習得してまもなく、それをいちいち指摘することをやめた。
それは疑問形であり、幼児が質問ばかりするのと全く同じ回路だ。
「どうして空は青いの?」
「どうして○○(人の名前)は、こういうことを言うの?」
こうした質問は、純粋に理由がわからないからその理由を知りたくて発せられるものだ。理由がわからないというのは、言い換えれば自分の中で理屈が立たない・矛盾しているということだ。

見過ごす欺瞞と指摘する勇気。

見過ごす欺瞞は自分がカルマを背負うことで、他者を赦すことでもある。
キリストの磔はその象徴でもある。犠牲の精神である。
見過ごすということはアガペー(慈愛)を無視することである。
無視は慈悲・慈愛に反するものだから、それを背負うには恐ろしい覚悟が要る。見過ごすということは優しさでも勇気でもない。妥協であり平伏である。

指摘する勇気とは、自らの説を通すために相手の説を否定する行為ではなく、相手の説にある矛盾を突くことである。つまり相手の説のうち理解できていないところを理解するために必要な質問をしていることである。
しかしこの指摘が、間違って受け取られてしまうこともある。
相手の説の弱点を突くことで、相手自身の説を否定していることが相手を否定していることにつながっていると思われてしまうことがあるのだ。
これでは議論は成り立たないのだが、その公平な議論を現代教育では(意図的かどうかは知らないが)捻じ伏せられてしまっているため、議論が成り立たずに諍いが起きる構図だ。

本来、指摘には勇気を出す必要がないのが健全な社会の姿だ。

押し付け、上下関係、権益構造、不公正、それらが当たり前のように常識として植え付けられてしまった社会においては、指摘に勇気が必要となる。

そのため、陰口や恨みが生じてしまうのだ。

陰口を叩かれて喜ぶ人はいない。
それで喜んでいるように見える人は裏返りが起きている、つまり欲望が自虐的な歓喜に向けられるのである。

このような形を僕は望まない。

人が何かを語るとき、矛盾を指摘する。
その指摘をどのように対処するかによって、僕は人の子としてその相手の内面にある誠実さ・不誠実さすべてに対する本人の覚悟を観るのだ。
裏表があってもいい。ただそれを隠すための言い訳は簡単に見抜くことができてしまうので、見抜いた上で僕が黙っているということは、相手のカルマを背負う行為なのだ。しかしそれを積み重ねることはできないので、貸しはすべてきっちりと、多すぎず少なすぎず美しい形で返す必要がある。これが誠実であるということで、相手に対してまっすぐな鏡の存在でいるということだ。

僕と出会い、共に時間を過ごすことによって嵐のような事態が起きるのであれば、それは起きるべくして起きているのだ。
平穏であるのならば、それもまた必然だ。

ただやっぱり、閉ざす心、欺瞞、嘘、不信、そういったものに触れると、悲しい。僕も人間だから。相手も悲しいはずなのだ。
喜びに満ちた瞬間を取り戻す一助になれたらと常に思う。

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