5/26 Facebookの投稿より
なぜ食堂が作りたかったか
本物の食の改革をしたい。
農・飲食できちんとこの目で見てわかってからものを言おうと決めてた。
無農薬、固定種復興、農薬品質改良、農法改良、無化学肥料とか、今の農業は言葉に踊らされすぎてる。
それというのも、言葉ばかりの奴らがカネにたかってくるからだ。
いいか、上記のようなカイゼンは、ITをはじめ他の産業ではあたり前田のクラッカーなのだよ。
なんて呼ぶかわかるか。
『製品品質改善』だ。
フードロス問題だ、ビニール等石油製品不使用だ、古材活用だ、こういうのはな、
『コスト改善』というのだ。
製品のレベルを上げて価値を高め、製造の無駄をなくしてコストを下げていくことで、継続性つまりサステナビリティが確保される。当然地球環境も視野に入れるんだよ。今はコーポレートガバナンスがある時代なのだ。
上記のようなことは当たり前のことすぎて、そんなことを価値だ価値だと騒ぐのは一過性のものだ。
それよりも、食べるということの原点は何かをよく考えてみてくれる人がいたら嬉しい。
食べるというのは、いのちをいただきながら、いのちをつなぐことでしょう。
生きてるだけで罪(カルマ)を重ねるのが生き物の宿命です。そこから目をそらそうとして、人工肉だ代用肉だ?
エゴの深さにもほどがあるだろう。
食べる美味しさとはテクニックに踊らされることではない。
誰にだってあるだろう?
忘れられない魂に響く味が。
カッコよくソウルフードなんていうものじゃなくて、
例えば親が作ってくれた素朴なオムレツとか
そういった類のものだ。
何故それが美味しいのか?
それは、慈悲がこもってるからだろうが。
慈悲というのは、深い深い度量が生み出す赦しですよ。
生きてもいいっていう赦しを、血と肉として受け取る儀式ですよ。
僕たちは生かされてるって言うじゃん。
そう言うことでしょうよ。
口だけ言うのは簡単なんだよ。
言うだけ言って、結局僕たちはこの世界で何を食べてんだ?
どうして僕の血糖値は下がらないんだ?
どうして病院食を信頼できないような世の中なんだ?
それを信じ込もうとしたり深追いしないのは何故だ?
上京する若い息子か娘。
それを見送る親。
さだまさしの『案山子』
元気でいるか
町には慣れたか
友達できたか
寂しかないか
お金はあるか
今度いつ帰る
そんな心持ちで送り出す親御さんたちを少しでも安心させられるご飯を毎日出したい。
そんなシンプルなことが東京ではできてないんです。
5歳からの想い
農家さん、トラックの運転手さん、卸の方々、小売の方々、そして家庭の栄養管理を担っているお母さん。(お母さんじゃない人もいます)
この流れが保護されるべきと天に叫んだのは、僕が5歳のとき、母と買い物に出かけたときに起きたイチゴの悲劇がトリガーです。さらに遡ると、3歳のときに父方の祖父母と二子玉川園に行った時に起きたポップコーンの悲劇がトリガーです。詳しい話は書きませんけど、5歳のときに感じたあの絶望的な想い。自分の小さな両手の頼りなさ。忘れられないのです。
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