訣別 – Separation

他人のことを、例えごく一部でもきちんと理解しようとしてみたら、じっくりと本気で取り組んでみたところで半分も理解できないかもしれないことは、ご存知かと思います。本質的には不可能です。とても難しいことです。理解は誤解かもしれません。いったん理解したと信じたことが本当に理解と呼べる代物なのか、それともただの誤解であるのか。掘り下げれば掘り下げるほど答えがなくなっていく感覚に陥るものです。

けれども不思議なことに、人と人の心が通じる瞬間があります。理屈じゃなくて、わかりあう瞬間があります。それは両者がそれぞれ過去に遭遇してきた共通性のある経験と、そこから得た世の中の本質に関する学びがあるのです。

ですので相手によっては、その分かり合える瞬間が断続的に起きたり、たまにしか起きなかったりもします。

こうした事象は人と人の間に限定されません。命と命、意識と意識の間に立ち塞がっている『理解』の壁。これがあるからこそ人生はドラマチックだと思うのです。しかし、この相互理解に関する美とも呼べるような複雑怪奇な世界を全く受け入れようともせず、他者の決めつけをしてしまう人が増えています。それは、相手が不利益を被るという以前に、決めつけている人自身が浅薄で感動のない残念な生き方に囚われてしまっており、ワクワクを見失いながら苦しさやルールに縛られることに躍起になる結果を生んでしまうのです。世の中は、単純化された法則や、有限のデータを限られた知識をベースに統計した結果をもとに見ているものなどに『断定』させられるほど、簡単なものではありません。そんなに簡単だったら、多くの人がこの世の中にあっという間に飽きて死にたくなるんじゃないでしょうか。全能力を賭して研究を積み重ね、全行動力を発揮して経験を得てもなお、目の前に高く聳える山がある。だからこそ人は自由なのです。

ロールプレイングゲームは、魔王を倒したらおしまい。映画や小説の多くはラストシーンで完結。

すべての物事に終わりがあるという認識は、人生のあらゆる成果に対する期待を削いでしまいます。終焉を意識しながら物事を進めるとエネルギーを失います。なぜ終わりだけにフォーカスする人々がいるのか、もっと良く知りたいです。理解できてないからです。

所謂科学脳。理論と呼ばれる公式に当てはめてあらゆることをパターン認識しようとする傾向をもちます。理論の正当性について追求することが、本質的に可能であると信じる根拠がありません。限定的な知識と判断力しか持たない、ちっぽけな人間でしかない「自分」が完璧な理論展開などできるはずがない。しかし盲信によって一旦決めつけてしまったら、世の中には善悪が存在するという前提が生まれてしまいます。そして全ての事象は善悪いずれかに属するという世界観に陥る。この考え方に拠ってしまえば、すべての未評価の事象は善悪を見極めることによってどちらかに属することが可能ということになってしまいます。理論というものは、例外を処理しません。だからこそ想像を絶する余地を許さず、頭の固い舌戦になります。広がる会話にならない。

独自理論も同様で、違いは権威性に依存するか、自己正当性に依存するのかの違いで、論理傾倒(科学脳)は依存が生み出す宗教と同じ機序です。

依存とは、何かに凭れかかる事です。『人』という漢字は支え合う2人の人間であると昔教わりました。支えることと依存することを同義には扱えない。これらは決定的に違うことです。意思により信仰を前提にできることが依存です。意思の源泉に病の根源があります。意思の源泉は常に自らの理由なき好奇心であるのが生き物としてごくありふれた形ですが、源泉が自らの内なるものではなく外部にある場合、依存となります。そこを辿れば依存解決の糸口は容易に見つかり、長年かかって絡まった糸も解けていくのです。ただし糸を解くためには、「自己罰」から抜け出すことが肝要です。自己罰はよく甘えや逃避と混同されますが、異なります。甘えや逃避は、自己罰とは全く異なる状況判断を示しますし、避けるべきことでもないです。しかし自己罰は、悲しみしか生まない。

統計について。傾向によって何かを相手に信じさせたい説得者が自説を統計で裏付けて示すと、人々はすぐにそれを信じてしまいます。それは、統計が本質的にどのような性質のものなのかを学んでいないからです。統計におけるエントロピー、過剰適合、そして汎化について簡単に理解したかのように語る統計論者がおります。しかし、汎化というものが一体どのような意識レベルでのバイアスを通さざるを得ない不確かなものなのかについて、思慮してみませんかと伝えても、思慮したくないという人が何故多いのか。みんなノウハウをかじるだけの応用専門の商人なんです。その学びを究極に突き詰める意欲も好奇心も覚悟もなく、今までに得た『限定された知識で食っていける』『人々に尊敬される』『自分の価値が他人に認められる』から、その先に進むモチベーションがない人たち。

経験則に当てはめて決めつけるような会話の果てには、相互理解は存在しません。

指針が読めない行動を見てバカだと思いますか?理解できていないだけだと思いますか?

相手と対等な関係性を持たないことが、興味深い別の事実を生んでいることに気が付きますか?あなたが意図せずして相手に対する意見を上の目線から送りつける。それはまた同時に、相手があなたに伝える意見が、あなたにとって上から目線に見えるのです。あなたは自分自身の思い込みのせいで相手を読み違えてしまい、そのせいでさらに相手を傷つけまでしている上に、あなたはそれに気づいていない。あなたは、あなたが他人を評価するときに使っている自らの内面に存在する評価基準そのもので自己紹介してしまっている。その評価基準で自分自身をも傷つけてしまっている。そしてそのことを認識できてない。

そのような物事とはもう、訣別しましょう。

罪を憎んで人を憎まず。事象と人生の訣別はあなたの人格の否定ではありません。

Hiro Hayashi

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