所感 – updated

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退院して1ヶ月が経とうとしている。入院前とは打って変わった生活にも漸く慣れてきた。発作を起こした5/24から煙草をやめて6週間。未だに煙草を吸いたくなる時がある。QoLとは何か。生きる為に今という瞬間に妥協を赦すのか、それとも現在の純粋性の為に未来への畏れや憶測を棄てるのか。この両極端にも思えるスタンスの違いこそが、人として生きる新たなる価値観なのではないか。新しいとは云え、考え方は遥か昔からある。大衆の波長がまだそこまで届かなかった時代は、時代を牽引するリーダーが価値観を示してきた。キリスト、仏陀もそうであるし、聖なる規範とされる全てのものが示す波動の高い生き方。それは全てを捨てているように見えて、何も捨てていない。執着心こそが喪失への恐怖心そのものであり、執着を無くすと何も失わない。我々は追い詰められてその境地に至るのではなく、開き直って至る境地であることを示しておきたい。

例えば猫は、(a) 例え短い時間でも外を自由に走り回り、縄張りを得て生きることが幸せなのか。それとも (b) 人による保護を得て行動に制約が出る代わりに長い寿命を得ることが幸せなのか。答えのない比較である。瞬間エネルギーの収束点は現在。猫にとって過去や未来は存在しない。multiverseに至る科学的アプローチは、シンプルに生きる猫にとっては何ら論理的裏付けの必要もないごく当然のことで、現代人は永きにわたりそのような本質的理解をするための瞬発力を論理という名の幻で弱らせてきた。過去・現在・未来という物の見方こそが光の速度を生み、生まれたものを研究するという唯物論の波状効果。時間は便宜的に創造された幻想で実際には一定の流れをもつ時間など存在しない。それは素粒子のレベルで波動を見極めたその先にある。なぜ粒子は可能性の波の結実としてこの三次元世界に存在するように見え、密度のない粒子が物体という密度を作っているように見せているのか。そしてそれを意識がどのように処理しているのか。わたしたちの脳はどこまで抽象化しているのか。クオリアの問題。過去現在未来と思われているものが同時多発的に存在するというのは、白い部屋の中にいる自分自身が同時にあらゆる場所にいることと同義だ。想像力の幅を広げるには内観の発達が必須だ。それ以外を幻想とするならば、幻想以外とはいったい何か。大切にすると云う理念を猫で例えるならば、未来への畏れを無くし、人と猫が同様の自由を謳歌できる共存こそが目指すべきゴールであることは明白であるが、問題はそこへ至る過程だ。猫が好きならば好きであるほどに、猫にシンパシーを感じ、保護しようとしてしまう。これは、親が子に対して心配するプロセスと心理的には同類のものだ。

(1) 意思疎通の奥深い世界

人と人であれば意思疎通ができるから被保護と自由の選択は本人次第だが猫には意思を伝えることが難しい、という考え方について問い。人間でも意思をうまく伝えられていないケースが後を絶たない。憶測による意思疎通の中断、Equalityの不均衡な関係性による結論の押し付け等。さらに問い。意思疎通の幻想について。わたしたちのコミュニケーションとは本質的に自己便宜的なものに過ぎない。脳は利己的である。さらにそれを量子的に客観すること。さらに問い。猫の意思伝達を理解できない鈍感な存在。人の問題ではなく波動の問題。人間の言葉を使えないのは猫だけではない。問い。意思疎通は、発信者と受信者の波長が肝要。それは有機的同期でも無機的同期でも同じ。発信者の責任とか受信者の責任とか、そんなものは幻想で詭弁。問い。受信者は発信者から得る全ての情報に対して再送の依存なきよう誠実・繊細・真摯にアンテナを向けるべきである。同時に発信者は受信者に本意が伝わるよう、受信者の理解力に依存したりせず、伝わらない責任を環境に転嫁することなく、誠実・繊細・真摯に発信すべきである。これも無機的なプロセスと何ら代わりがない。この相似的比較は、無機質が意識を持ちうるか、生命とは何か、倫理観とは何かを問う。倫理観のない存在が倫理観について語るドグマ。伝達意思を明確かつ単純にすべく、自らの内面およびP面と向き合う態度も同様に誠実さを保ち、逃げない勇気を必要とする。問い。逃げない勇気と書けば面倒で人間臭くて重い印象が強いが、機械的で明快なこと。猫を見ればわかる。意思伝達は極めてストレートでシンプル。時空特性のイメージで表現すれば、些末な数値の変化も手に取るように見える。

(2) 現在と未来どちらのために生きるか?

いまを生きることと将来を勘案して生きることのどちらが本質的か問い。論理的思考の到達点として将来を見据えるという表現がよくあるが、これは論法への誘導で賛同・不賛同の結論を訴求してしまうため掘り下げが難しい。社会的組織に属していると人間は限定された経験の積み重ねを記憶から引っ張り出して、かなり都合よく組み合わせ、経験則と言う名の偏ったフィルター回路を作ってしまう。未来のことは全て憶測でしかない。例えば貯金、生命保険、住宅ローン、皆保険制度、年金、すべて不確定な未来に対する憶測によるものだし、これらのことに手を出す理由は未来への期待値である。未来への期待値とは、現在の解決ではなく未来の状況を憶測に従い託しているだけである。数年後に第三次世界大戦が起きていない可能性は?50年後に温暖化で地球環境が想定外の変化をしてしまっている可能性は?現在は存在しないことが想像すらできない貨幣経済そのものが15年後には存在していない可能性は?日本は今まで長い時間存続してきたという曖昧な学習から、今後も日本が継続していくという根拠は?歴史を見れば日本という国が安定して存続している期間がどれほどだったのか?他国の歴史は?来年あなたがまだ生きてる可能性は?なぜそこまで都合よく憶測できる?

明日、生きている確約はどこにもない。

憶測して計画しないと生きていけないと思い込まされていることに気がつくチャンスだ。憶測は必要ない。猫を見なさい。犬を見なさい。明日の心配をしているのは人間だけ。転ばぬ先の杖と称して資源を無駄に使うのも人間の恐怖心から。ブッダの教えを読んで見なさい。聖書の教えを読んだことがありますか。聖書には様々なバージョンがあり、様々な歴史的事情によってバイアスのかかったバージョンがたくさん存在していますから、これはそもそも聖書に限ったことではなく古文書は大抵そうですが、文字を妄信せず大局を見なければ何も理解はできないのです。広がりのある学びをするには、読むことも当然必要。多少ではなく大量に読むこと。それから想像すること。過去について。現在について。未来について。さらに、行動して見られるものは自分が直接見て感じること。その積み重ねでしか得られない、自分だけの真実。

(3) もっと現実的でわかりやすいトピック

現在に生きること。心筋梗塞したからといって僕の人生観は揺るがない。汚いルールで自らを縛り上げない。

6/11の退院からずっと、殆どの人間関係から離れている。今までは、どのような人間関係にも果敢に飛び込んでいた。性善説だけで生きていた。けれども自分は、あまりにも傷つきすぎた。苦しいだけなら耐えられたけど、心臓まで悪くしてしまった。自分の身体をもっと大切にしてあげようと思った。なので今後は人間関係はじっくりと決めていく。人間関係だけではない。現在という瞬間をもっとゆっくり大切に、真摯にやっていこうと決めた。

自宅の周りをポタリングして知らない町並みを氣ままにうろついていたら、教会を見つけた。そこから導かれるようにして、オアシスのような場所を見つけた。そこで新しくできた何人かの友人(になれそうな方)のひとりから聞いた話だが、最近知人を亡くしたそうだ。その亡くなった方は半年前に心筋梗塞をやって入院し、糖尿のイエローカードも出ていたそうだ。その話を聞いて危機感はとくになかったが、自分の命はもしかしたらよくて半年かもしれないという心持ちになった。そして感じたのは「半年だけ」ではなく「半年も」。明日も無いかもしれないという感覚において、半年という時間は実際にはきっとあっという間に過ぎてしまうものなのだろうけれど、何かを残したり、やり遂げるには十分な時間です。半年でやり遂げられないことはおそらく、何年あってもやり遂げられない。それは今までの自分の生き方からみても思う。

自分が生き急ぐように走ってきたことはよくわかるけれども、それに対する後悔の念はまったくない。こうして瞬間的な決断の断続を感じていることが、自分らしいと思う。明日や昨日に意識が行く時間が長くなると、ちょっと自分はいま弱ってるのかな、なんて思う。

運命、縁、なんとでも好きなように呼んだらいい。もしかしたらシンパシーだとかエンパシーだとかエントロピーとかいろいろあるのかもしれないけど知らない。すべて自分で作っているんだ。そして多くの人は、生まれたときからそれを知っていることを、忘れてしまっている。僕は覚えている。伝わらないものは伝わらないままでいい。同意も合意もくそくらえだ。でもきっとここにこうして思うままに書いていることは、自分を含めて誰かが必要としているのだ。

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