世の中で大事って言われているようなことは何も話さない場所。そういうことは何も訊かれない場所。でも、人として大切なコミュニケーションができる場所。50年間、1/1と1/2以外は年中無休でずっと、人を受け入れてきた優しい場所。
朝のAlettaはまだお客さんもいなくて、カバンに忍ばせていたスケッチブックに自然に手が伸び、何気なく描いた。描きたいものが絵になるものですね。これは30分程度でかなり適当に仕上げてしまいましたが、それでもぼくにとっては記念碑的な作品です。なぜなら、筆を置いてから既に四半世紀が経過していました。この25年間、何度となく真っ白な画用紙と鉛筆を手にして、なにも描くことができない自分に独りで苦悩してきました。なぜ描けなくなってしまったのか、ずっとわからなかったからです。
このお店のソファと大きな窓と木目の壁が描きたくなって、何も頭に入れず、自然の成り行きに任せて描きました。思いのほか喜んでもらえたので、この絵は思いがけずお店へのプレゼント。
常連のお客さんにもたくさん褒めていただけて、嬉しかったです。
今朝描いた、にゃーちゃん。手元にあった72色のパステルを使ってみました。パステルは線が大胆であることと、いちど描いた線は消すことができないこと。一発勝負で苦手意識がありましたが、大きめの画用紙を使うと楽しいことがわかりました。色を選ぶのも楽しさのひとつ。使ったパステルは、9色です。所要時間は30分ほど。
描く/表現する
上の絵は実際のにゃーちゃんではなく、写真を見て描きました。絵を描くときに頭に思い描くイメージの作り方にはいくつか種類があります。
- 何も見ないでイメージだけで描く
- 実物を見て描く
- 写真を見て描く
このやり方が変わるだけで、出来上がる作品は大きく変わってしまいます。それを実感したかったのと、イメージだけでにゃーちゃんを描く自信がまだなかったので、練習と思って写真を使いました。やはり思った通り、写真を見ながら描くと、面白みは激減してしまいますね。画に個性がない。
文章は、その人の内面を伝えるために綴る道具ですが、絵を描くことも同じです。音楽もそう。すべてのArtはそうです。Art / Artificial、つまり人工のもの。ひとが作りしもの。それは、模倣にはじまりますが、模倣で終わってしまっては、本来の目的を達成していません。
ヒトという宇宙を通じて物事をフィルターし、感性が掛かった表現をすること。それは共感。目に見えない振動の共有。
本質的にはArtもScienceも同じです。どちらも創造です。発見とは、創造という種が実った果実だからです。そして創造は、想像から生まれます。
光と影
絵を描くことについて苦手意識のある方がよく勘違いしていること。とくにマンガやアニメの鑑賞だけに慣れてしまっていると勘違いが起きやすいこと。それは、絵を描くというのは輪郭を縁取ることだけではないということです。存在しない線は存在しないということをよく観察すると、絵画とは、光を影で浮き上がらせる作業からはじまるということがわかると思います。もちろんそれだけではありませんが、この世には縁取りはありません。
それから、この世には本当は、黒は存在しません。黒っていう色は無いのです。
デッサンについて
デッサンにこそ真髄があります。観察と表現のせめぎあいです。
ぼくは絵を習ったことはありませんが、1人だけ、先生と呼べる人がいます。それは、小学5年生〜6年生の担任の先生、蒔田先生という女性の先生です。この先生はオリジナリティあふれる教育の情熱をもった方で、いまでも心から尊敬しています。
蒔田先生は、毎朝ぼくたちにある課題を与えてくれました。それが、クロッキーです。日本語では速写とか速写画というようです。5分とか10分とか、限られた時間で、お題の絵を描くわけです。スピードが求められると、感性が露呈してくる。その過程がよくわかる素晴らしい時間でした。
しかも、ただクロッキーするわけではないのです。使う画材が、割り箸をカッターで尖らせて作った割り箸ペンと、墨汁です。割り箸を墨汁につけて画用紙に線を引く。太さのコントロール、墨汁のかすれ具合など、とてもおもしろい画材です。
さらに蒔田先生は、ある時から「利き手と逆の手を使って描く」ことを教えてくれました。逆の手を使うと、理性でコントロールできない野性が画用紙の上を暴れまわります。当初はひどい絵だとクラスメート同士で爆笑していたものですが、蒔田先生はそんなぼくたちの作品を笑うことは決してなく、ぼくたちの絵の「この線がすばらしい」と、ひとりひとり褒めて回っていました。ぼくたちを成長させるために鼓舞してくれているんだと思いましたが、だんだんと先生の言っている意味がわかってきました。
描く対象は、毎日交代でクラスメートです。モノを描くこともありましたが、人間を描くのはとても楽しくて、エキサイティングでした。生き物と生き物でないものの境界線に、ペンを落としていく。描く対象を観察すると、ひとつひとつのラインが、ため息の出るような美しいラインであることに深い感動を覚えました。
体操着を着たクラスメートを描きながら、服のシワひとつの織りなす光と影、その裏にある筋肉や骨や脂肪の美しいラインを想像することは、最高の経験でした。小学生でも、男子と女子の体格の違いが身体のあらゆるところにありました。筋肉美ひとつとっても、男女それぞれに違った美しさがあります。
モデルになるクラスメートも、はじめは恥ずかしがったり嫌がったりすることが多かったのですが、やがて、面白いポーズを考えてくる男子が現れたり、それぞれの創造力でさまざまなポーズを発表する場にもなっていきました。クロッキーの時間は、美と真剣に向き合う場になっていました。
クロッキーのあとはいつも、感想を伝え合う時間がありました。
恥ずかしさを乗り越えて、モデルのクラスメートの身体のここが素晴らしいとか、そんなディスカッションが生まれました。クラスに一体感が生まれ、クロッキーを始めるまでは、自分たちがどれだけお互いのことを見ているようで見ていなかったのか、皆が感じました。
いま思い出しても、あれだけ素晴らしい空間を作れた蒔田先生の実力と想いに、頭が下がります。イノチとイノチが関わり合うというのは、こういうことなんだと思います。
ほかにも蒔田先生は、生きるうえで大切なことを、たくさん教えてくれました。言葉ではなく、体験や、背中を見せることで教えてくれました。
自分だけの絵を描くということ
自分の感性を疑う必要は、ひとつもないのです。
ただ、見たものを素直に筆に落としていくだけです。ほかには何も要らない。自分で自分を評価する必要もない。ペンが迸る、画用紙との接点にだけ集中して、あとは自分の感性を信じてあげればいい。
上達するということは、何かを得ていくことではなく、何かを捨てていくことなのです。
技術を身につけるということは、そのセオリーの本質を研ぎ澄ますために、余計な思い込みを捨てていくことにほかなりません。
技術書を読めば、技術が言葉で書いてあります。それを頭で理解するのは誰にでもできること。しかしその理解を疑うところが、スタート地点なのです。
蒔田先生の以前にも以後にも、僕にとって絵の先生はひとりもいません。
蒔田先生のもと、展覧会に出品された一枚の水彩画。いまでも忘れませんが、クラスメートが腕相撲をしている絵です。千葉県で金賞をいただきました。甥っ子を通じて、いまでも母校に飾られていると聞いて、恥ずかしいような嬉しいような気持ちになったものです。
モチベーション
「いい作品を描こう」と思ったら、決していい作品はできません。
それは、仕事でもおなじことです。「いい仕事をしよう」には必ず、裏があるからです。自分が何かを作るとき、作る理由をあとから掘り下げてみてください。称賛とか名誉とかお金とか自己満足とか、そういうことをモチベーションと呼んでいては、決して妥協のないものはできません。
創造のためにほんとうに必要なのは、ひとことで言ってしまえば「愛」としか言いようがありません。
それは、絵でいうならば、描く対象に対する愛情です。
たとえば風景を描くのならば、あなたが伝えずにいられないほど感動したものが一体何なのかを、自分以外の誰かに伝えるにはどうしたらよいかを試行錯誤しながらキャンバスに落としていくだけのことです。描きながら「そう、そうだ!自分が伝えたいのはこれだ!」と思えるのならば、その絵は成功しています。「違う、自分が表現したいこの内なる感動は、こんなものじゃない」と思うのならば、あなたは自然にかつ必然的に、その表現ができるようになるまで、何度も何度も描き続けるでしょう。それこそが、第三者からみた「努力」であり、第三者からみた「練習」です。あなたは努力とか練習とかそんな言葉で自分を縛る必要はないのです。すべては究極の表現のための過程でしかないのだから。
本当に表現したいこと
絵画、音楽、映画、写真、料理、小説、陶芸、プログラミング、踊り、研究、スポーツ、……。
この世の中には、表現するための道具がたくさんあります。すべての行いにはArtの側面があるといえます。しかしこのように名前のついた道具は、すでに誰かによって確立されたものです。
いまぼくが表現したいことは、残念ながら限られたジャンルや既存のジャンルだけでは、表現しきれないと結論しています。その結論に達したのは、何十年も前のことです。
だからこそ新しい表現へのチャレンジをやめることができないんです。
いまここにある、自分の中にある美しいもの。これを表現するために僕は、すべてのものを使う覚悟をして生きている。それだけが、本当にそれだけが、僕がこの世の中に生きていて、誰にも負けないもの。
ひとつのものだけに固執しない覚悟は、同時にあらゆるものが観察対象となり、あらゆるものが人生の課題になって降りかかる。
こんなに苦しくて、かつ、こんなに美しい生き方は、他に知らない。
はたして自分は、この内なる感動を、どれだけの人にどれだけのリアルさで伝えることができてきたのか、それは死ぬまでわかりませんが、そんなことは些末であり、ずっと続けていくことでしか理解できない世界があることを見つけてしまった以上は、自分がやっていることはすべてArtだという自覚があります。
そしてそれは、僕だけに与えられた特権ではない。
世の中の誰もができる、至上の喜び、これ以上ない感動です。
いまこうしてまた絵を描くことができるようになったのは、意味があります。理由があります。ぼくはその流れに乗っていく。
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