奥戸越

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屈託のない笑顔のようにダイレクトで歪みひとつない直射日光が煉瓦道を照らすなか、戸越銀座商店街を中原街道側から真っ直ぐに抜けていく。

東急池上線の戸越銀座駅の白木造は夏の昼間を照り返して輝いている。踏切を渡るとすぐ右側に、行きつけの中華料理店「華宴」がある。中国出身なのか台湾出身なのかまだ聞くことができていない若いマスターはいつも溌溂としていて、心地よい挨拶をしてくれる。常に外にも意識を向けていて、店の前で思案している見込み客の呼び込みにも余念がないが、その誘い方がまあ今日の天気のようにカラッとしていて、人はつい店に足を運んでしまうのだった。

この店のおすすめは何かと言われると困る。とにかく何を食べても絶品で、毎日食べても飽きない優しさがある。裏の厨房から決して顔を出さないシェフは店の大きさを考えたらおそらく一人だろう。他にはマスターの奥さんらしき女性がいる。ここはランチタイムに関係なく「今日の定食」「今日の麺料理」「今日のお粥」の3種類があって、内容は毎日変わる。値段も手頃だ。定食が750円でご飯の大盛りは無料。

この店が最初にお気に入りになったのは、定食についてくるコーンスープが美味しかったから。程よいとろみの中に美しく糸状になった卵、そしてコーンの甘さがバランスよく仕上がった逸品だ。

幼い頃から僕は中華料理店のコーンスープが好きなのだが、ここまで理想に近いコーンスープにはなかなか巡り合うことができない。

ご飯の炊き上がりもしっかり粒が立っていて文句なし。麺はしっかりとしたコシがあり、どの料理も決して味付けは濃くないが、この店の料理はどれも味付けのバランスが素晴らしい。

商店街をさらに進むと、国道1号線に当たる。都営浅草線の戸越駅はこの辺りにある。信号を渡るとその先も商店街が続くが、ここから先を僕はあえて「奥戸越」と呼ぶことにしよう。

輸入食材が信じられないくらい安いお店、ペット用品が安いお店。魚料理が美味しくて焼き魚や生魚の定食が手頃に食べられるお店。アイルランド人が脱サラして始めたアイルランド料理のお店。おでん専門店。蒲焼専門店。プラモデル専門店。無数の銘柄を取り揃えたたばこ屋。塩専門店。

奥戸越は時代から取り残されているというよりも、流行の変化などまるで意に介していないような雰囲気だ。

しばらく歩くと、行きつけの喫茶店にたどり着く。喫茶店は2軒が50メートルも離れておらず、それぞれ僕は常連だ。なぜならどちらも最高に美味いコーヒーを出すし、東京都の条例にも負けずに「未成年が入店できない」ことを受け入れてでもいまだに喫煙可能であるからだ。

ひとつは金田園。元々はお茶屋さんだったという。名前もその時から変わっていないのだろう。僕の母くらいの年代の女性が一人で経営している。タバコを扱っていた時期も長かったらしく、たばこ屋の面影も残っているし、なんといっても特徴的なのは各テーブルに缶ピースが置いてあり、客はそれを吸うことができる。

ここのマスターはしばらく前に店先で転んで腰骨を骨折してしまった。それでお店もしばらく閉めていたのだが、無事に再開することができた。音楽が好きな、粋なマスターである。

金田園のメニューの中でも特筆すべきは「アマレロ」と銘打ったハンドドリップのコーヒー。苦味が強めの濃い味で好みが分かれるかもしれないが、このアマレロは最高にうまい。

注文すると、Lotusブランドのシナモンクッキーと共に配膳される。苦いコーヒーだからこれでお口直しをしてね、ということなのかもしれない。

しばらく経つと必ず出てくるものがある。それは日本茶。そしていつも、今日はどこのなんていうお茶だとか、新茶だとか説明をしてくれる。知らない人が多いかもしれないがコーヒーとお茶は実に飲み合わせの良い飲み物なのだ。どこかの健康関連の記事で、コーヒーと日本茶を一緒に飲むと互いの良い効果が増幅されると読んだことがある。それをマスターに伝えたら、お茶屋さんから始めたという件を聞くことができた次第だ。

もう一件は金田園とは全く趣が違う。喫茶店よりカフェと呼んだほうが似つかわしい。名前はヨリミチカフェ。ここは40代か50代くらいの女性が2人で経営している。戸越銀座商店街のサイトで紹介されていた記事を読んだことがあるが、戸越銀座の雰囲気に惚れてあえてここで店を出したという。

金田園には食事はないが、ヨリミチカフェにはある。手打ち麺のパスタ、手作りのキーマカレーも定番だが、面白いのはメンチカツサンドだ。メンチカツサンドは火曜と水曜は提供していない。その理由は注文を受けてから隣の肉屋のメンチカツを買ってきて調理するから。肉屋は火曜水曜が休みなのだ。ここのマスターたちの心意気が伝わるとても美味しいカツサンドだ。

ちなみにwebサイトを覗くと、ここではプログラミングカフェをやっているらしい。林さんという人がやっているらしいが僕のことではない。

奥戸越をさらに進むと、店がまばらになってくる。しかしここからはさらにディープな世界が広がっている。

一つだけ紹介してこの記事を締め括ることにしよう。それは、奥戸越のいちばん奥と言っても差し支えないほど奥にある、picnics*という喫茶店だ。

初老の夫婦が経営しているこの店は、マスターが若い頃はバンドでもやっていたのかなという風貌で、とても優しい顔つきをしている。そしてここは喫茶店でもあり、パン屋でもある。

ここには看板猫のユメちゃんがいる。猫が2匹いる。入り口のドアが開けっ放しでも勝手に出ていったりしない。そして毎日ご主人と散歩するので有名になった猫だ。

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