慈悲

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友達の定義についてまさか書くことになろうとは思わなかった。

僕にとって友達とか家族とかパートナーといった『関係性を示す言葉』はあまり意味がない。

お互いの存在を尊重し合えるかどうかが大事だ。

友達であり続けることに何か条件があるのだとしたら、それは僕にとって友達とは言えない。

仕事仲間って呼び方も好きじゃない。仲間は仲間だろう。仕事だけでつながっている関係性ならばそれは友達ではない。

僕はいま、仕事の関係性すら仲間とやろうとしている。そこには打算もないし期待もない。僕の仲間と呼べる人は、ただそこにいることで幸せでいてくれたらそれでいいのだ。

失敗も恐れない。楽しいことには失敗なんて言葉はないことを知ってる。

打算なんていらない。打算的になりそうな自分を見つけたら、ただただ素直で正直であればよろしい。

そんな関係性にある優しさよりも強い絆を僕は知らない。

意見が違ってもいい。価値観が違ってもいい。生き方が違ってもいい。ひたむきに、真っ直ぐに相手という人を見つめる。

それを求めてない人を無理に引き止めもしない。けれど伝えるべきことは伝える。ど真ん中ストレートで伝える。

僕は人を嫌いにならない。人を嫌いになるという言葉はわかるけど意味を理解してない。これを脳の欠陥と呼ぶのならばご自由にどうぞだ。

命の輝き、星の瞬き、太陽のエネルギー。どれも僕が愛してやまないものだ。

出先でバイクのタイヤがパンクした時、勘弁してくれと思った。けれどバイクを嫌いにはならない。

話が合わなければとことん向き合いたい。否定され続けて生きてきた人は、苦しい言葉を身に受けると、否定の言葉と勘違いしやすい。

そんな危険も分かった上で、他に伝え方がない時、下手にめんどくさい策を練るより、正直に真っ直ぐ伝えるのがベストだ。そのやり方ならば、唯一のリスクは、自分が嫌われる可能性だけだから。

事実は誰にも避けられない。そして、信念の言葉はたとえ関係性を失ったとしても、相手の心の狙ったところにきちんと刺さる。刺さった棘は、それをきちんと見据えて、認めて、向き合う覚悟をしなければ抜けない。その作業は、本人にしかできないのだから、僕がいなくても可能だ。

自分と向き合わなければ、棘はずっと鈍痛をもたらす。

わざとやってるのではなくて、それが真相を突いた言葉の力なのだ。

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