たわいのない会話ログ

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税務署から書類がごっそり届いた

年末、、調整?

今後のためのガイドブック
マジで色々めんどくさい

参考に渡すから来年からヨロシクてこと?

まだ読んでないから知らんけど
金出して税理士に仕事させるか
あるいは自分でやるか
税理士保護のためにわざとめんどくさいままに見えるのは気のせいか?

結構面倒そうな分量やね、そりゃ専門家が重宝されるわけですな

こんなんコンピュータにやらせるべき分野だよな
なんでこういうめんどくさいところを人はやりたがり、コンピュータが苦手なことをコンピュータにやらせようとするのか

それは思う
単に仕事を機械に取られたくないから。。

アホだよな
国力衰退もして当然
生きてるうちにこういう時代を終わらせられたら痛快だな
それを覆す力はもうこの日本に残されてないのだろうか

国としての勢いがなあ

友人のMさんがが小学校で生徒のカウンセラーやってるけど、話聞くと教師とかまじやばい
終わってる

教師はよくネットで人として物議を醸す対応とかで話題になるけど、そういうのんですかね?

ネットの物議がどんなもんかよく知らんけど

最近だと教師が教師を虐めて休職に追い込んで、これは可愛がりだと公言する話とか

カレーを目に刷り込む可愛がり
結果
給食からカレーが無くなる

・問題を解けない生徒を無視する教師
・言うこと聞く子をひいきする教師
・褒め殺しで、心から褒めてないのが子供にバレバレ
・生徒が質問するとため息をついて「なんでわからないの、こんなことが」という
・上記のような悩みをカウンセラーのMさんが生徒から受ける
・教師は命令が大嫌いなので、言い方に細心の注意をして、あくまで「提案」という形で教師に提言すると、「それは私達の仕事ですから、口を挟むな」と機嫌を損ねる

Mさん曰く、教師も昇進と身の安全しか考えてないって。

僕「でも教師ってよっぽどのことがないとクビにならないですよね、犯罪とか」
Mさん「そうだけど、教師の世界しか知らないからそこで守りに入るのよ」

昔からよく聞く話な気がする

そうなんだけど、何が終わってるかって、昔はそれでも気概ある教師がなんとか支えていた。そういう教師に負担がかかっていたが。
しかしそれももう過去。
いまや、上記のような教師しかいないってさ。
心に残ってる小学校時代の担任の話をしたら
「林さん、もうそういう教師はいないわよ」

教師も人間やし、実に人間らしい教育者らしくない対応じゃないですかね

(同じような話は現場から何度も聞いてるし、春不遠で活動してた10年前から問題は変わってない)
全面的に腐りきってる
そこで育つ生徒はどういう大人になるだろう

私立の教師はもうちょいマトモだと思いたい。公務員じゃないし

私立も二極化だよ
志もって教師になった人間が集まる学校は決まってる
そうじゃないところに、気概ある教師が耐えられるわけがない

とはいえそういうところにメスなんて入らんでしょう
評判の学校に自分の子供を送り込むくらいしか対策無いと思う

もうひとつ方法がある
学校以外のアクティビティね。
子供にとって学校しかコミュニティがないと、追い詰められる。
学校、塾、習い事。これしかないんじゃ、世界は広がらないからな。

悪いことは一切許さない
常に向上心もたせる
そんなことばかり押し付ける場所しか子供に経験させなかったら、息苦しい
だいたい親は子供時代にそんなに優等生みたいなことできていたのか?

学校、勉強が良くも悪くもアイデンティティな子供にその価値観は重すぎるわ

たとえば僕は、学校外でいろいろ友人つくってた
小2からボーイスカウトやってて、他校の悪友がいた
バンドは中学校から校外の人と組んでた

そういう子供も一定数は居るやろけどね

こういう経験が重要だと気づいてきてる親も増えてるんだよ。でも機会がどんどん腐ってる
いま、ボーイスカウトも変わっちゃって。
引率してる親が親だけに、子供の自由を制限するわけだ
キャンプにまで、あれをやれ、これをやるなと言う親がついてくる

実に今風やね
自分の子供を管理したい、自分の思う通りに動かしたいていう親心に沿ってますな

それは親心じゃなくて親のエゴだわな
自分の夢を子供に託すという悪行じゃん

まあエゴですわな
実に今風、個人主義

自分の夢は自分で叶えろボケ、とおもう
個人主義の名の下に、自分の子供を所有してると勘違いしてんだよね
虐待だよ

所有物な風潮が強いから。そりゃ子供も個人主義になるわな

どこの国でも親子間でこの手の問題はある。しかし健全な国では、ある時点できちんと子供が自分の意思を通す主張をして、それに親が気付いて、ぶつかりあうこともあるけれども、最終的には子供の自由な決断を親が応援する。それが親子間の学びで、成長だと思う。
そういう題材の物語はたくさんあるよね。

親が自分の子への愛情を超えたエゴに気付くためには、親自身を囲む社会があるじゃん。友人の助言とか、教師とのふれあいとか、職場の人間関係とか。

どこぞのお父さんの会とか
どんな活動か知らんけど

そう
自由について子供に教えられる大人が、子供に接することが難しくなってしまった。
自由な大人が少ないのと、自由な大人は煙たがられる

しかし世界に目を向ければ、日本はこうしたことによって国力がガタ落ちしてる。人の価値を自ら下げてるから。
多くの人はその関連性に気付けていない。
国内しか見えてないからではないか

海外の現実に触れる機会なんてそうそうないし
せいぜいお隣の国韓国では。。。くらいでしょ

経済も政治もあらゆることが国際的に繋がってしまってるからこそ、世界情勢に自分たちの生活が影響されていることを「学校」なり何なりが教えないと、抜け出せない
先進国では既にそうした取り組みが生活の一部になって久しい

島国にはそんな情報は入ってきませんので。。

情報が入ってこなかったとしても、なぜ物価が上がって給料が上がらず、生活は苦しいのか。なぜ世の中の様々なことが二極化してるのか。こういうことを考えるきっかけを生む教育がなくなったせいなのか、縛り付けすぎたのか、わからないけれど、多くの人にとって物事の本質が見えにくくなってるらしいことはわかる。

鎖国してた時代のほうがまだうまくやってたよ

本質隠すし、考える地頭力が下がってるんでしょう

鎖国してるとき、人々は海外と交流したがったんだよ
いま逆の流れでしょう
いくらでも交流できる機会は開かれているのに、人々の心が鎖国してる

いまの中国をごらんよ
共産党はグレートウォールに象徴されるように、自国民を壁の内側に抑え込んでおきたい。
一方、民衆は外と触れ合いたい。
その結果が、いまの中国の立ち位置なんだと思う。

現代の奴隷って言葉が頭に浮かぶ

根本解決(問題解消)は処方箋が無いんで、それと決別するしか方法無いんじゃないですかね。。
そのもやもやは、なんか物理法則に逆らおうとする人のように見える

この記事、UCCが缶コーヒーを開発したストーリーなんだけどさ

「できること」から考えなかったのだ。現在の人類が火星に8万人を移住させる能力を持っていないのと同様に、上島社長が「缶コーヒー開発プロジェクト」を始動した当時のUCCも、缶コーヒーの開発・製造技術も販売チャネルも持っていなかった。

もし「自分ができること」を起点に考えていたら、イーロン・マスクの取り組みは生まれなかった。同様に「缶コーヒー開発プロジェクトを始めよう」という発想にも至らず、缶コーヒーは生まれなかっただろう。

UCCは、徹底的に顧客の立場に立って「やるべきこと」を考えた。「コーヒーを缶入りにすれば全部解決だ」と考え、社内のリソースを投入し、熱い情熱を持って缶コーヒービジネス実現に向けて取り組んだ。そして困難に突き当たっても粘り強く開発を進め、新しい顧客を生み出し、コーヒー市場を変革したのだ。原動力は「顧客を喜ばせたい」というパッション。だから少々の困難があっても、決してあきらめなかった。

コーヒー業界を題材にしたビジネス戦略については、永井氏の著書『戦略は1杯のコーヒーから学べ!』にも詳しい。

「できること」から考えず、まず「やるべきこと」から考える。

そして、「やるべきこと」を実現するために「足りないもの」を把握する。

そして「足りないもの」をいかに解決するかを具体的に考え、愚直に取り組み続ける。

これがまさにイノベーションへのアプローチなのだ。

「できること」ではなく「やるべきこと」を起点にする。これだよ。

「日本が『失われた20年』に陥ったのは、リスクを取って新しい挑戦をしなかったからだ」と言われている。見方を変えると、これは「できること」を起点にして何をすべきかを考えたためなのだ。「できること」は過去の成功体験だ。しかし過去の成功経験に基づいて考えているかぎり、新たな未来を作り出すイノベーションは到底実現できない。

今、考えるべきは「やるべきこと」。そして「やりたいこと」。自分の前にある未来をいかに創っていくのかを考えるべきなのだ。

さて、それでは
やるべきことをやるのはわかった。
しかし問題は、そう言われてもやり方がわからない子羊だらけだということだ。
20年の間に、子羊ばかり生み出してしまった。

せやな

単純なんだよな。バンジージャンプなんだよ
ここで罠があって、バンジージャンプして、金銭的成功、事業的成功を収めてしまえばそれがゴールだと捉えてる人が多い
だから失敗する
そしてこのバカみたいな価値観を直接的に覆そうとすると、TOWNSHIP LABOのような失敗をする
つまり、おまえはアホだというレッテルを貼り付けられて終わる

金銭的価値観「だけ」では、一時的な豊かさを与えるけれど、決して満足感は与えない

カネに等しい価値を世の中に与えてなかったら、いずれ人は悩む。
これで悩む経営者の駆け込み寺が、僕の父親だったわけさ
売上とか利益だけ追求してきて、事業成功して、落ち着いてみたら「自分は何がやりたかったんだろう?」って自問自答で死にたくなっちゃう経営者が腐るほどいるわけ

親子で同じ価値観をもってるということなん?

同じではない。親父のやり方では今の時代に最適な回答を出せないし、親父はセミナーを通じて人に「教えて」「伝えて」いた。
実践が伴わないとダメというのが僕の評価だ。
だからどの会社にいたときも、
言ったことはやる(有言実行)
言わなくてもやる(不言実行)
これを大事にしてきた。TOWNSHIP LABOでもそう。ただ、試行錯誤だから失敗も当然あるし、失敗から学ぶこともたくさんある。

ずっと諦めてないんだよね
Q3もまた、新たなチャレンジというわけさ

失敗したときどうするか?
失敗から学んで、改良した仮説を、実際にやってみる。
それだけだ。PDCAだよね。

Q3の改良点は次の通り
・実質的支配者に制御権を奪われない組織づくり
・得意分野と深く絡めた事業展開
・相手のモチベーションを引き上げて仲間にしようとしない

ただ、TOWNSHIP LABOあたり以降に林さんと知り合った人は、実践という観点で結構そのあたり林さんは弱いという評だったりする

ここの評価は覆したいね

ぜんぜん覆したくないね
そんな評をする人は、実際何も見ようとしてないってことだ。

なんか勿体ない

いちばん長い間現場に立って、いちばん考えて実行してきた人間は僕だと自信を持って言える
お天道様が見てる。
やってもいない人に実践の評価されたところで、なんとも思わない。かわいそうだなとは思うけど。

目先の結果だけで人を評するような人とは付き合う時間がないから。

深くその人と価値観をわかり合わないとその人の評価は実績のポートフォリオを見るしか無い

人の評価なんてまったくどうでもいい
なんで気にする必要があるのかわからない
気にした時点で、自分の芯がブレるしかないでしょ

そらそやわな

人の評価する人は、それで自分が正しいと「自分自身や他人」に言い聞かせて自分の立場を維持したいだけよ。
だからそういうことは、結局自分に返ってくる。
なぜなら、自分のもっている実力以上の評価を得ようとする行為だから。原因は欲望か何かかな。

欲望通りに評価を得れば、その評価に見合った中身がなければならない。
自分で自分を縛ることになる

だからといって世の中から意味のない評価をする人は絶えない
そういうとき僕はこう捉えることにしてる
「観てる世界の大きさが違うから、正当な評価ができないんだな、この相手は」と。

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