人を好きになるって、人によっていろんな定義があるんだなって思った。『自分のために人を好きになる』って言う人がいるけど、そういう人は、音に出して話す言葉と、心が語りかけてくる言葉がまったく反対のことを主張してて、悲しくもなり、愛おしくもなる。なにか僕にしてあげられることはある? って聞きたくなる。
家族、ともだち、恋人、同僚、同級生、師弟、他人、いろんな関係性の名前があるけれど、僕がここで言いたい「人を好きになる」というのは、関係性によらない、普遍的なもののこと。誰に対しても持っている同じ思い。
人を好きになるとは、人に好かれることと同義である。
それはどういうことかといえば、相手が人生で幸せを感じるために、自分という一人のちっぽけな存在が何か役立つことができること。それ以外はないです。僕は、その相手が幸せを感じて笑顔になる姿を見て幸せを感じるようにできている。そのために生きているから、命をそのために使っている。みんなもそうだよ。なんか、世の中複雑だから、いろいろ見えなくなってしまってるだけだよ。
だから、相手に疑われて、結局自分のエゴでしょって言われたり思われたりすると、とても悲しい気持ちになる。
求められたから返したのに、それを「あなたが勝手にやったことで迷惑してる」と言われると、胸が張り裂けそうになる。
そんなもの求めてない、なんてよく言われる返しだ。確かにそう言ったよ、なんて言えない。言った・言わなかったの言い争いはしたくない。人はどうでもいいことは忘れてしまうけれど、大切に思ってることは決して忘れないようにできている。僕にとって何よりも大切なのは、こういうことなんだ。人と人のかかわりあい。ふれあい。人だけじゃないから、いのちと、いのちの、かかわりあい。
でも僕はあなたの心の声を聴くことができるんだよ、なんて言えない。そんなこと言ったら、あなたにわたしの何がわかるんだ、思い込みで行動するなんてストーカー行為だと言われてしまうから。
そうして人は、ハートブレイクする。
世の中はとてもややこしくて、心が求めていることをやってあげても喜んでもらえず、嫌われることがある。
嫌われるのは悪いことではない。でも切なくなる。
伴侶や心の友を探す旅というのは、おそらく、自分を心から必要としてくれる人を探す旅なのだと思う。
昨晩、夢を見た。昔から何度も見てる夢だ。
夢の中で僕は、旅をしているらしい。様々な景色が僕を魅了する。様々な価値観を持った人たちとたくさん出会い、別れ、また出会う。それは最高の体験だ。
そしてその夢の中でいつも、僕はその感動をわかち合う誰かと一緒にいる。顔は決して見えない。男なのか女なのかもわからない。でも僕にわかるのは、様々な景色を見ているその瞬間をその人とわかち合っていることがとても幸せだということ。なぜならその人が、新しい世界をリアルタイムで目の当たりにして、心が豊かに広がり、感動して幸せを感じていることを、僕は感じているから。だから僕は幸せを感じている。
その伴侶ともいうべき誰かが、見知らぬ村の人たちと触れ合い、心を通じ合わせて、心を豊かにしていく。そんな風景を観察している僕は、嬉しくて、とても幸せなんだ。
地球って素晴らしい場所でしょ? かかわりあうって、最高の体験でしょ? そう言いたくなる。共感して、この感動をより多くの人たちとわかちあいたいと思う。
夢を思い出しながら、僕は、ハッと合点する。そうだ。僕は誰かに愛されるよりも誰かを愛したくて仕方がないのだ。でもそれは、相手があってのことなので、とてもややこしい。
ややこしさは無視することにして生きる。だってややこしくなってるのは僕ではなくて相手のほうだから。そうすると今度は、表面的にはいいこともわるいことも起きる。
裏切られるということはどういうことかについて話しておこう。裏切られるというのは、心の声を無視して、頭の中に広がる「疑念」に支配された相手が、心の声を信じずに頭で考えた疑念の方を採択すること。
あなたの心はわかっているはず。僕が邪念など持っていないことを。それなのにあなたは、あなたの中に生まれた、僕に対する疑念の方を信じることを決めてしまった。
その悲しみの深さったら、ひどいもので。何千回も経験してるから、そうなるときにはそうなるってわかっているけれど、毎回、毎回、胸が張り裂けそうになる。
それでも、決めたのは僕ではなくて相手だから、僕はその言葉に対して責任を取るし、相手もその言葉を口にした責任を取ってもらうしか術はない。
それが、人との別れの本質。
心が繋がっていたら、たとえ物理的に遠く離れていても、会いたいと思うことはあっても、胸が張り裂けそうにはならない。
そしてさらに胸が痛むのは、相手が僕を傷つける言葉を出してしまう理由まで見えてしまっているから。ヤマアラシのジレンマ。
他人を信じるということが、そんなに怖いのかい。
他人をどれだけ信じることができるのかは、その相手が信用に値する人間かどうかを評価してわかることではないよ。自分自身の問題だよ。他人を信じられない理由をたくさん生み出してしまう、自分の頭の中にいる悪魔の所為だよ。
裏切られるのが怖いのは、誰でも同じだよ。
それでも、
- 裏切って傷つくのは他人
- 裏切られて傷つくのは自分
- 自分は傷つきたくない
- 他人も自分と同じ人間
- ということは、他人も自分と同じく、傷つきたくない
さあどうする。自分が傷つくリスクを取るか、他人が傷つくリスクを取るか。
僕は、自分が傷つくリスクを取り続ける。
心が傷つくことの辛さを知っているから、そんな思いはあなたにしてほしくないんだ。
万策尽きて、どうしても別れを選択しなければならない時は、僕のせいにできる余地をたくさん残してから別れる。僕のせいにしていいんだよ。あなたは、なにも背負わなくていい。
僕はあなたに笑顔でいてほしい。だから僕は嘘をつかないし、もしついてしまった嘘があれば死ぬほど苦しんだ挙げ句にきちんと訂正するし、あなたを心から愛しているし、別れなければならない状況で最後に僕があなたにしてあげられることは、別れの痛みをできるだけたくさん、僕が引き受けることだ。
この世を生きていく中で、友人も、恋人も、たくさん、出会い、別れてきた。僕の顔も見たくないと思う人もたくさんいるはず。でも僕は、この世に生まれ落ちてからいま現在までに出会った全ての人のことを、愛してる。
嫌いになれたらどんなに楽か、と涙を流すことも何度もあった。でも僕は、人を嫌いになる回路が存在しないのか、壊れているのか。どんなにやってみても、嫌いになることはできない。
だから、僕にとって生きるということは、そういうことを全て引き受けることだ。
それしか生きる術がないから。
神様を恨んだ頃もあった。
どうして生きることはこんなにつらいのですか、と。
僕にとって昔から、死ぬということはゴールだ。役目を終えて、この世でやるべきことを全うして、ようやく、休んでもいいよと神様に許可をもらったとき、自然に命が終わるのだと思う。
でもそれは、生きることを諦めてしまったら訪れない。降りかかる試練の数々。試されてるのは、僕自身の心の純粋さなのだ。
どんなに失敗してもいい。人間だから、人を傷つけることを言ってしまうこともある。でも根底に流れているものは、慈悲であり、愛である。それを失ったら僕はこの世に生きている意味を失ってしまう。
動物はとてもわかりやすい。僕は、一緒に暮らしている猫のにゃーちゃんのことも大好きだ。そしてにゃーちゃんは、愛情をまっすぐに返してくれる。いままで人生を共に過ごした動物たちはみんな、そうだった。そしてエゴもない。
Queenの "Somebody to Love" より:
Can anybody find me somebody to love?
(誰か、僕が愛する人を見つけてくれないか?)
「僕が愛する人」…… "Love" の定義のしかたによって、この歌詞の受け止められ方はまったく違ったものになってしまう。Loveは与えるもの。さだまさしもそう唄ってる。
僕はこの自分の生き方に肯定的になることができた。自分を赦すことができたということだ。それがいつだったのかはわからないけど、苦しいこともたくさんあったけど、自分のそういうところ、嫌いじゃないんだ。
こうして理解していく。人のために生きるってこういうことだって。
僕は人が好きなんだな。
そしてこれを読んでくださっている皆さんもそうなんです。
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