猿田彦神

神々の集う島、神津島。

2019年12月22日、冬至。朝 5:50。目が覚める。

頭はスッキリとしており、思考は明瞭。覚醒している。

小用を足すために、眠っている藤田くんを起こさぬようそっと襖を開け、まだ暗い民宿の廊下を歩く。

ふと妙な思いに氣をとられる。

自分は実はもう死んでいて、氣付いていないのは自分だけなのではないか? と。

どこかでそんな話を聞いたことがある。

もしそうだとすると、僕はなぜこの世にいると思いこんでいるのだろうか?

一緒に来ている藤田くんはなぜ僕と共にいるのか?
→死んだ友人が成仏できていないから、弔いの旅に同行してくれている。

大切な友人たちはなぜ僕から離れていったのか?
→死んでいるから。そうすると未だにそれを思い出している僕は未練に支配されている。「関係が戻らなくても、幸せでいてくれればそれでいい」と思っていた僕は偽善者だった。

素敵なことが続いているのはなぜか?
→未練が残る僕を成仏させるために、神様がすべての願い事を三途の川の手前で叶えてくれている。

走馬灯のように遡る記憶。合っていく辻褄。

島のあちらこちらに、烏がいたこと。

猿田彦神は導きの神であること。

昨日の島内一巡は、バイク屋のご主人がつくったおすすめコースの逆打ちであること。

島内をめぐる旅のあちらこちらで、鈴の音を耳にしたこと。

道路や岩場のあちらこちらに、榊と松ばかり目についたこと。

出会った島の猫たち。

昨晩民宿の風呂で、島の水を沸かした湯船に頭まで浸かり、禊の感覚になったこと。

風呂から上がり民宿の浴衣を身につけるときに感じた、新たなる旅立ちの感覚。

浴衣の帯を締める前に、なぜか前合わせを左前にするか迷い、生きていると自分に言い聞かせるように、右前にしたこと。

赦すということは未練を断つことそのものではないか。

僕は昨日、バイクで転倒した。幸いなことに大きな怪我もなく、バイクは擦り傷程度で済んだけれど、レンタルバイクを返却するときに、「正直に打ち明ける」「黙って返却する」の2つの選択肢があった。正直に話した。バレるバレないの問題ではなく、そうしないと氣が済まないから。こうすることで、自分も未練なく感謝できるし、バイクレンタル屋のおじちゃんとおばちゃんも、未練を残すことがないからだ。

未練をなくすとは、旅立ちの準備のことである。

身の回りを整理しておくとは、旅立ちの過程である。

相手の未練があるから、自分に未練が残る。自分に未練があるから、相手に未練が残る。これは、どちらから発生したことでもなく、相互作用なのだ。

部屋に戻ると、豆電球だけ灯った部屋のガラス窓に浴衣姿の自分がぼんやりと映る。幽霊のようだ。そして当然ながら映る姿は左前に浴衣を着ている。

窓を開け、まだ暗い外の空気を浴びながら、煙草を一服する。

これは現実か、あるいは神様の悪戯か。

どちらなのかを知ることはできないことを悟った。

つまり僕が生きているのか、死んでいるのかを知ることは不可能なのだ。

もし死んでもなお生きているように人が接してくれるのならば、その理由だっていくらでも思いつくことができた。

そして、生きているのか死んでいるのかは、まったく重要なことではないと悟った。

「自分がもし死んでいて、それに氣付いていないのが自分だけだったとしたら」

その場合、僕は死者の成仏のために旅路を共にしてくれている友人や、慈悲深く弔いのために対応してくれるすべての物事や事象のありがたさを知り、皆さんを安心させるためにも早く未練を断ち切り成仏しなければ申し訳ないと感じた。

「自分がもし生きていてた場合」

神津島の神々のいたずら。猿田彦神の導き。氣付きの旅。たとえ生きている者同士であっても、未練を残すことはしたくない。そう昨日までも願いながら生きてきたつもりだったが、その実感が弱く、闇を探るような試行だった。いま感覚としてリアルに把握してみると、僕はまだまだ修行が足りないことが手に取るようにわかる。要らぬものを断ち切り(断捨離)、死後わたしを思い出して悲しむ者がひとりもいないように生きていくこと。それこそが調和への旅であり、人生であるということ。不調和があればそれを整えるために尽くすこと。わたしの五体はそのために与えられていることを知る。

神、宇宙、生命、太陽、地球。なんと呼んでもいい。その偉大な力は、やりたいことをやるために、この世にわたしが生まれることを赦し、やりたいように生き、三途の川を渡る前に未練なくこの世を去れるよう、この世界をわたしたちひとりひとりに与えてくれている。想像を絶する懐の深さに畏敬の念を懐きながら、薄明るくなった神津島の空を見る。


死んでいるのか、生きているのかは、どちらでもいいではないか。

そこに意識をまったく向けずに、日々ひとつひとつの細やかなことすべてに、後悔のないように生きることが、神々の慈悲そのものだということに、僕はようやく氣付くことができた。

「成り行きにまかせる」

この言葉がここ数週間、わたしの身の回りを漂っていた。

その清々しさに心を洗われた。

そして神津島の空は朝を迎え、わたしの旅は今日もどうやら続けることを赦されたようである。

天上山の頂より