試練について

苦難、それ自体は何の成長にもつながりませんが、苦難を乗り越える(生き延びる)経験までつなげ、その経験を抽象化して学ぶことにより成長はあります。ここでいう学びとは、体験そのものから直接的な解を得る手法のことではなく、潜在的なドグマを覆すことにより自身の内にある体系に明かりをもたらす行為そのものを指します。

辛い体験をただ重ねたからといって成長が約束されているというわけではないということに注意してください。

また、辛い体験というのもは必ずしも自らの身を持って体験するものだけで得られるとは限りません。

さらに、体験の「辛さ」の度合いというものは、人それぞれ受け止め方が違います。たとえば【親の死】という体験、【道端で転んで膝を擦りむいた】という体験など、様々な体験がありますが、同じような体験をしても、AさんとBさんではそこから感じ入るものが異なります。

より小さな体験を大きな学びにつなげるために、事後になって真剣にそれについて考えることを選択する人が多くいらっしゃいますが、それは意味がありません。実際には、その体験を得ているその瞬間に何を得ているのかがポイントです。その大小を決めるのは【感度】です。感度つまり感性の強さというものは、エネルギーの強さというよりは、繊細さです。細やかなことを感じ取る力です。

巷にいう【超感覚的知覚】というものは、感度を研ぎ澄ませた状態で得られる感覚を形而下で知覚することです。わたしたちは受容体などの複数の道具を用いて感覚を常に得ていますが、その感覚のほとんどは意識されることなく通り過ぎています(実際には通り過ぎていないのですが、これはまた別の話にしましょう)。

感覚として流入したものをどのレベルまで掘り下げて認識できるか。認識するということは、その感覚が形而上のものではなく形而下にあると言い換えることができますが、これによって学ぶ形而下の学びと、形而上にありながら学ぶ感覚と直観の学びが同時に起きます。

こうした流れを感じ取ることができないのは、能力が足りないというよりもその流れを確信していないことが原因といえるでしょう。信じていないものは観えないためです。

経験から学ぶ総量というものは、このようにして感受性に左右されるところがあります。これは、文字や言葉というかなり粗雑で限定的なコミュニケーション手法においても多く当てはまりますが、さらに情報量の多いコミュニケーションにおいてはさらに顕著な差が発生します。

確率論的に述べれば、多くの辛い経験や試練を乗り越えた人が成長している確率は高いですが、必ずしもそのような経験が必須ではないということの理由のひとつが、この感受性の差異であるということです。

感受性を高めるためには、絡まった糸をほどくように、自らの魂のあり方を中庸に落ち着かせる必要があります。これは言葉で語ることはできず、自己整合性、合理性、正直さ、素直さなどの集大成によって、学ぶ土壌ができます。

他者からみてどれだけ整合性のとれた表面的和合がなされていようとも、内なる整合性は自分自身に嘘をつくことができません。エゴイズムを棄てるということは、排するのではなく存在させないことです。この違いに敏感であってください。

内なる不整合をもったまま力を行使すれば、それは表面的な結果を得るだけで終わるばかりか、その反動を受け入れなければなりません。後悔先に立たず。

純粋性には一点の曇りも許されません。己の鏡像をみて、汚れがあるのならばそこに正面から向き合う覚悟が要求されます。向き合って見えるものを素直に受け入れれば、何をすべきか答えは己が知っています。知らないというのならば自分に正面から向き合えていない証拠です。その答えをただ素直に実践する際に、自ら望んだ容易さでそれが実現できることはほとんどないと割り切ってください。何度も失敗経験をします。しかし挫けずに継続しましょう。同じ繰り返しをしても同じ結果しか得られません。己が得た結果と常に向き合いながら、次の一手を信じ、あらゆる形で継続する意志をもつことと、柔軟な心を持ち合わせることで、必ず困難は克服することができます。これが試練の一面です。