「普通」の話と「縦横堀り」の話と。

世界へ視野を広げようとする傾向が強かったのは、自分が普通でいられる世界を探していたのかもしれない。

それから、縦堀りと横堀りの話も関係する。

今回はその2つの事柄を説明しながら、話を展開していこうと思う。

普通の世界

幼少時、僕の世界には「普通」とか「常識」といった言葉が存在しなかった。今思えばこれはとても幸運なことだと自分では思うのだが、両親も祖父母も叔父も叔母も皆、僕の質問には真面目に答えてくれた。時には冗談で騙されたり、大人でもわからないことはわからないと言われたりもしたけど、我が家には質問の答えに「それが当たり前だから」とか「常識」という言葉は決して無かった。

なので、自分が普通なのか普通じゃないのかについて考えることもなかった。

礼儀や優しさに関するしつけは厳しかったけれど、僕はそれを学ぶのが好きだった。なぜならそれが必要な理由をきちんと説明してもらえたし、その理由が好きだったから。礼儀は相手のためにある。これが自分を守るためだと説明されていたら、うまくいかなかっただろう。

きちんとできた時に褒められるのは嬉しかった。でもそれは褒められた自分が嬉しいのではなくて、褒められるレベルにきちんと物事ができるようになったことで、将来出会うであろう人々や、自分の友人や友人のご両親などに対してきちんと感謝の念を伝える手段つまり社会的コミュニケーション手法を習得したことで、その方々と心で触れ合える深さが増した実感とその喜びや、実際にその人たちとコミュニケーションするときのことを想像した時の期待感で嬉しくなるのだ。愛する相手に愛を伝える手段はたくさんあったほうがいいに決まってる。

やがて学校という社会に出て、世の中には「普通」や「常識」という言葉があることを知った。でも僕はそれらの言葉について深く考えたことはほとんどなかった。なぜなら(家族に限らず)僕が尊敬する人たちは、すべての行動に理由を持っていたし、なぜそうなのか、なぜそうであるべきなのかを自分で考える責任を教えられてきたから。僕の常識と他人の常識を比べたら当然違いがある。それが個性であり、それぞれが持っている異なる個性があるからこそ、それが集団化した時に多様性が生じる。

歳を重ね、社会に出て働くようになった頃には、常識というものを盲目的に押し付けてくる人や、押し付けられていることに気がついてない人たちがたくさんいることを既に知っていた。

特に面倒だったのは、金銭と引き換えに常識を押し付けてくる人たちだ。僕はそのために何度か鬱になったし、何が正しいのか分からなくなりかけた頃があった。

それでも三つ子の魂百まで。僕は自分の常識にはすべて理由を持ってきたし、自らを疑うことの大切さも忘れずに常識を常に更新し続けてきた。そんな自分を信じて再び立ち上がれるようになるまでには少し時間がかかったけれど、自分を取り戻した。

僕は他人を比較するのが嫌いだ。なぜなら自分も他人と比較されたらとても嫌な気持ちになるから。比較して何がわかるというのだろう。

社会常識とは一体なんだろう。多くの人が当たり前と思ってることが常識? 多くの人が心の中で疑っている常識が山ほどあるというのに。

結局、常識というものは社会には存在しなくて、それは己の中にある他人と自分を比較しようとする心にあるということがわかる。

僕は成長と共に少しずつ人間関係を多様化させていった。自分の価値観と合う人たちがどこかにいるという思いもあった。

国内外、様々な人たちと付き合ってわかったこと。やはり常識など個人のものであって社会的常識など存在しない。

問題は、ひとりひとりの心の中に、他人の常識を認められる寛容さがあるかないかだ。

僕は我が母国、日本で常識外れらしい。普通じゃないと良く言われる。でも僕は自分で自分の価値基準を持っていて、自分の中にある普通と常に照らし合わせているし、自分の価値観に問題がないかどうかを常に見張ってる。なのにどうしてうまくいかないのか不思議だった。

あるとき気がついた。常識に縛られている人は、常識破りが怖いんだ。そして常識を破る人を、安定性を破壊するリスクのある人間として恐れる傾向がある。対等に議論することを選ばずに数の暴力を使う人が多い。

そして常識の型にハマってる人は、無意識にそういうことに頭を使ってるから、本来使うべきところに智恵が回らないんだ。なのでせっかく地頭が良くても、頭の悪い行動をしてしまう。

縦堀りと横堀り

縦堀りは、ひとつのジャンルや限定された領域の知見を深めること。横堀りは、ジャンルを広げること。

多くの「普通の人」は、この縦横を「バランスよく」こなせるらしい。いったいバランスの基準がどこにあるのかは知らないけど。

さて、ここで僕のように発達障害のレッテルを貼られている人の多くがどういうロジックで行動しているのかについて説明したい。

縦堀りの深さをx、横堀りの幅をyとすれば、xとyの最大値を求めてどう掘るか。

僕が見てきた多くの「普通の人」は、xもyも値の小さいところで未踏のものがあればそこから掘る。

僕たちADHDは、xを掘れなくなるまで掘る。次に、x=0の地点でyを掘れなくなるまで掘る。さらに、xの値が最大のところでyを掘る。さらにyが最大のところでx=0からyの最大まで掘る。すると四角形の坑道ができる。その四角形の中は、この掘り方を繰り返すと掘る必要がないことに気がつく。

  • ADHDの人が過集中すると言われているのは、x軸を深める縦堀りをしているだけ。
  • ADHDの人が多動性を持つと言われているのは、y軸を広げる横堀りをしているだけ。

お分かりだろうか。過集中と多動性という二つの相反するようにも捕らえられる二つの性質は、全く同じ性質からきているものだ。

過集中も多動力も、その継続力(一気に掘り進める距離)を握る鍵がある。それはバランスだ。知的好奇心、知力、精神力、体力、心身の健康。

頭がいいだけでも体力があるだけでもダメだ。精神論だけでもアウト。

繰り返すが、バランスが大事だ。IQ150で体力や精神力や好奇心が100の人よりも、全体が120の人の方が間違いなく成果を生む。

体力、知力、精神力は衰えさせることができるから、突出している能力を衰えさせることによってバランスを取り戻そうとする人が多くいる。その場合、日々のバランスは取れるようになるが、僕に言わせれば才能がもったいない。

僕は知力が高すぎたので、精神力や体力をそれ相応に上げるためには、並々ならぬ努力が必要だった。結果、満足できる正三角形に近づくために40年以上もかかってしまった。

さてここで余談だが、掘る方向には次のベクトルがある。x、y時たら当然z軸がある。

これはある程度の大きさのxy平面が自己認識できるようにならないと、z軸のベクトルを認識できない。xy平面に対して垂直方向がベストだからだ。それを見極めずして正しいz軸は見えない。

z軸もマスターしていけば、さらに次元数を増やした掘り方も見えてくる。直方体を多数掘るイメージだ。

これをq軸掘りとする。quantityのqだ。これを認識するためには、xyzがゼロの原点の座標を認識している必要がある。原点の異なる地点で、しかもできるだけ離れた地点で掘ることが効果的だからだ。

q軸掘りを重ねていくと、次に見えてくるのがt軸だ。tはtimeを意味する。t軸彫りをするためには、q軸掘りで形成された集合を俯瞰する力と、時間軸による各集合を同時多発的に捕らえた際の変化量を把握する必要がある。

常にこういうことが普通と思って生きていると、やはり普通じゃないと言われてしまう。僕は多くの人がそこに向かって生きててこれが普通なのだと思っていた。