いちばん深いところを語らない理由

答えから書いておくと、あることを説明しようとするとその前提の説明が必要になり、まったく話にならなくなるから。説明しきれないとこっちが理解していないと思い込まれるのは相手の勝手だが、僕を決めつけた当人にとっては残念な話である。そういう無駄なことに時間を費やすよりも自分で納得して満足しながら深く広い世界を探求していたほうが楽しいし人生の役に立つ。

この世の中の探求は常にひとりだけの旅。間違えるリスクも成功した成果もすべて自分だけのもので、共有することは不可能に見える。

なにか命題について語るとき、その命題にアプローチするために必要な前提経験や自己のもつ世界観とその根拠について頭の中にイメージがあり、そのイメージは感覚的なものではなく、ただそこに存在する。イメージという単語で表現すると視覚的なものを想像されやすいが、そうではない。イメージを単純に観察してそのまま視覚的なところまで降ろしたとき、それはビジョン(視覚的な形態)として頭の中にあるし、同じように聴覚、嗅覚、味覚、触覚(肌感覚)などさまざまな五感に当てはめたビジョンとして説明することができるが、それは決して元のイメージ全体を説明できない。イメージを五感的ビジョンに落とし込むためには「降ろす」作業が必要だ。これには多くのカロリーを必要とするし、たいへん骨の折れる作業なのだ。ではなぜその骨の折れる作業をやるのかというと、社会的に他者と共有することができる形にする必要があるからだ。この作業を「昇華」と呼ぶ人もいるようだが、これは昇華とはまったく逆のグラウンディングでしかない。これがどのように骨の折れる感じなのかを他のたとえで説明すると、5歳の子供に因数分解を教えるようなものだ。言語や数式には学習や共通化などの前提となる一般的素養が必要となるため、ビジョンで伝えるほうがダイレクトではある。

πが3でも3.14でもいけない理由

円周率(π)を学習する際に、「わかりやすくする」というよくわからない理由で3とか3.14と定義するが、いちばん大切なことはπを何桁まで覚えているかなどという曲芸的な技術の競争をさせるところではなく、円周率は現代の10進法をベースに展開されている数学の世界において小数点以下が無限に続く割り切れない数字であるということを子供に認識させることだ。なぜ円周率は割り切れないのかという命題について客観的アプローチをとれば、値や単位といったものが、自然界に根拠のない人間の勝手な認識における独自ルールを基本としているという想像ができる。子供じみた例えをすれば、ある異世界の数学的体系において円周率が1である可能性がある。その世界においては、直線を示す値は割り切れない数字かもしれない。もう一歩深堀りすれば、直線というものが美しい状態であるという認識がなぜ起きるのか。自然界の物質で直線構造をとっているものは鉱石系の結晶構造くらいのもので、それすらミクロのレベルで観察すれば決して直線ではない。むしろ直線と曲線という二極化させた認識の閾値を存在せしめているのは人間の受け止め方やその受け止め方を受容させる認識をもたらすように(自然に)構成されてきた我々の社会や文化なのだ。物事に正誤がないというのはそういうことだ。さらに、円周率というものは直線があってこその数字なのであり、これほど馬鹿げた自己満足的な数字があったものかとニヤニヤしてしまう。むしろ円や球を基本として数学体系を構築すれば、そこには直線率という数値が現れてきてもおかしくないし、直線というものはこの地球上の環境においてのみ通用する。重力による空間の歪曲(注:実際には歪曲ではない)や次元的な影響など、さまざまな見えざる「歪み」の結果、その環境下で直線を形成するということに意味はなく、直線というものは一定の空間条件下で2つの三次元的座標同士を最短距離で繋ぐ一次元的な軌跡のことを示しているに過ぎないということがわかる。

πが3や3.14という学習ではここまでの想像、思考を促すことができない。無限やカオスといったような、容易にビジョンを把握できないものに対して人間は好奇心を抱く。その好奇心こそが世界の秩序(オーダー)を定義していくものなのだ。