差別をなくすことを突き詰めればわかること。
差別をなくすということは、自分以外の誰かがやっている差別を糾弾したりやっている人を攻撃することではないと思う。
まずは己の中にある差別をなくしていくこと。これはとても大きなチャレンジである。だから「わたしは差別しない・していない」と言い切れる人は、本当にそうであるのか、よく観察させていただいています。僕は差別のない生き方を目指しているけれど、無意識にやっていることを含めて、「差別していない」と言い切れるかというと、それを常に自分に問い続けています。
僕がよく感じる違和感のひとつに「かわいい(Cute/Pretty)」の定義があります。僕が心を許している友人たちと「かわいい」について語るとき、それはコンテクストにあります。ところが同じ「かわいい」という単語を使っていても、明らかに「ルックス」について語る人がたくさんいます。僕はルックスがかわいいかどうかは、よくわからないです。その人の中身も含めて知れば知るほど、感じるものは変化しますから。
「豊か」について語るときにも同様の違和感を覚えることがよくあります。僕にとって「豊か」とは、「お金をたくさん持っている」ことではありません。それは、銀行口座に入っている数字の大小の話であって、本質的な豊かさとはまったく関係のない話。敢えて問いますが、どうして人は「お金持ち=豊か」と勘違いをするのでしょうか?
「頭がいい」について語るときも同じ。多くの人が知ってる大学を卒業したから頭がいい? 試験の成績がよいから頭がいい? 数学ができるから頭がいい? 意味がわからない。会話として成り立たない。参考書や教科書で教えていることというのは、「既に誰かが答えを見つけ出したもの」で、それをただ学んで、理解することは、その分野に興味があれば誰でもできることです。サッカーに興味がある人とない人を並べて、「おまえはサッカーができるから運動神経がよい。おまえはサッカーが下手だから運動神経が悪い」って言ってるのと同じでしょう。
頭がいいっていうのは、そういうことじゃないと思います。
こうした類の会話はとても息苦しくなります。窓のない暗くてじめじめして狭い部屋に閉じ込められたような心持ちになります。
「太りすぎ」「痩せすぎ」も、それを決めるのは自身であって、他人ではない。そういう見た目的な価値観を自分以外の誰かに押し付けるのは差別です。
僕のルックスを「かっこいい」「かっこわるい」と評すのも、差別。かっこいいって評すことの何が悪いって? かっこいいかかっこ悪いかは、何かと比較してるから生じるものでしょう? 差別してます。
見た目を何かしらの形で評価している時点で終わってると思います。
「日本は素晴らしい国だ」
どこが素晴らしいと思うのか具体的な主観を表現できなければ、それは危険な発言です。他国と比較してそう言ってます?
僕がここで主張していることを正確に理解するためには、物事の「よい・わるい」には多面性があるということをご理解いただく必要があります。
ある人にとって「よい」ことが、別の誰かにとって「わるい」ことでありうる。簡単に言えばそういうことです。これが、価値観の違いです。
様々な価値観があることが「価値観の多様性」です。ダイバーシティです。
「よい」「わるい」ではなく、「すき」「きらい」に置き換えてみてください。
「わたしが、よいと思う」→「すき」
「わたしが、わるいと思う」→「きらい」
そういうことですよね?
価値観の押し付けこそが、差別の温床です。自分の価値観を正義の基準にしてしまうことは「常識の押し付け」となります。
常識など存在しません。脳が勝手に作り出した幻想です。
ないものを押し付けられても困ります。
差別のなくしかたのヒントです。
固まった頭を柔らかくしていきましょうね。
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