多くの人が知らないこと。知ろうとしないこと。それは、理由は後からついてくるものだということ。
理由が先回りすると理由に働かされる。
そして理由以外の原動力を認識していないひとは、漆黒の瞳を持っている。
理解されないと言うことは、理屈でわかってもらえないことじゃない。
理解されないということは、もっと深い。
わたしを躁鬱病だと断定することで安心する人たちが、かつてわたしの周りにたくさんいた。それで満足するならそれでいいんじゃないかなって思うけど、わたしはわたしの繊細さや大胆さを捨てるような馬鹿な真似はしてこなかったし、これからもしないだろう。
なるほどね、と腑に落ちることがある。
わたしの左脳は男性らしさを醸し出し、わたしの右脳は限りなく女性らしい。
意思と意思。意見と意見、感情、経験、智慧、理屈。いろんなものが常に頭の中でぶつかり合い、スパークし続けている。
わたしの頭の中の議論は止まない。
そんなわたしが脳内議論の時間に入ると、わたし以外の人たちはわたしを指差して、落ち込んでるとか鬱エピソードだとか、勝手にのたまう。勝手にさせておこう。
そしてわたしが頭の中で検討や議論をしていることがひとたび合議に達すると、わたしはそれを脳外つまりわたし以外の人たちに伝えたり、意見を求めたり、実際にやってみたりする。やると決まったことは、やる段階でその成否にフォーカスしてもまったく意味がない。たとえ失敗するとしても、やるんだから。やる前に結果はわからない。
そんなわたしが行動していると、わたし以外の人たちはわたしを指差して、ちょっとやりすぎなんじゃないかとか、躁エピソードだとか、また勝手にのたまう。
わたしはわたしらしくある。
余計な干渉とかされることが、いちばん心にくる。どうか邪魔しないでほしい。お願いだから。
わたしのことを本当に心配しているのならば、邪魔したり意味のない批判をするのではなく、理解しようとしてほしい。理解してくれなんて言わない。理解したいと思ってくれたらいいのに。
心配してると言いながら心配してない人たちがたくさんいる。心配なのは自分のプライドを守ることなんでしょ、って言いたくなるけど、きっと伝わらないから黙ってやり過ごすことにしている。
わたしは最近あまり、心の奥底にあることを他人に話そうとしなくなった。誰もがわたしのように他人に好奇心を持つわけじゃないらしい。だからきっとみんな、わたしの話にはあまり興味がない。
興味を持ってくれることは、とても幸せなことだ。それは奇跡のようでもある。
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