No volunteer

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キューブカフェはボランティア活動の場ではない。価値交換の場である。

そもそも価値とはなにか。

価値観という言葉があるように、価値には多様性があり、その価値の高さを決定するのは判断する個々である。りんごが100円で「高い」と感じる人もいれば「安い」と感じる人もいる。これは、それぞれの価値観ということになる。金融経済市場を形成している商品やサービスなどはお金という指標によって提供者と受益者の間で合意が形成されているのが建前である。このように通貨で等価交換することが可能な価値は有限であるし、多くの場合その指標が大なり小なりコミュニティで通用しているものに限る。

食糧・医薬品・土地家屋などの「衣食住」にかかわる必需品とは、個々の価値観にかかわらずおおよそ全ての人が必要としているがために、価値の合意形成が歪みやすい。国民皆保険、年金、給付金、給食費無償化、ベーシックインカム、生活保護、フードドライブ、こども食堂の類はこの「合意形成の歪」の是正が主眼にあるはずなのだが、利益追求が状態化している我が国の状況においては正しい認識がマイノリティ化しているようだ。本来は行政介入なしに健全な合意が形成されるべきものだ。受益ではなく共済が主眼にある制度が、受益目的の常態化によってますますややこしい歪みになっている有様である。

一方で、世の中には数値化の合意に達していない価値が無限にある。りんごやマンションや自動車やスマホや生命保険など、世の中でプライスがついているものはすべて金で手に入るが、市場に組み込まれていないものはビジネス化されなければ金で買うことはできない。このスキームを介すためには市場において存在が認められるためのプロセス(継続性確保)が必須となる。しかし提供者と受益者というかかわりあいだけでしか合意形成ができないのであれば、当然ながらスキームに載せられない価値があるということになる。

それを与え合う場が、キューブカフェなのだ。

たとえば僕が人に与えることができる価値のひとつに「知識」がある。知識にプライスタグをつけて販売するためには、活動をしていますよという宣言が必要になる。個人事業化や法人化はその例だ。

僕がIT知識を人に売りたいと思うならば、値段をつけて売る。つまり「技術の提供者」が自分あるいは自分の会社であり、「受益者」は会社の顧客だ。受益者は合意した金額を支払ってくれる。

しかしキューブカフェ事業において事情は異なる。

ITに詳しい僕がキューブカフェに来る。ITで困っている人がキューブカフェに来る。僕はその人が必要としている知識を与える。相手はそれで助かる。その相手は別の場面で、僕に料理を教えてくれたとする。これは知識と知識の交換であり、当人同士が満足していれば合意が形成された価値交換となっている。

上記は全体のほんの一例にすぎない。あらゆる物事が価値交換の対象となる。なぜならキューブカフェに感じている価値は、人それぞれだからだ。

「与えられる価値なんて持っていない」という言葉をよく耳にするが、そんな人はこの世にひとりも存在しない。持っている価値を認識できていないだけだ。そして価値があるかないかを判断するのは、その価値を持っている人ではなくて、100%受け取る相手側なのだ。

たとえば釣りの知識を持っている方が僕にそれを教えてくれたとする。僕にとっては知らない世界で、それを熱く語ってくれる方の知識や経験談は僕にとって価値がある。当人はそれを「いやいやこんなの大したことないよ」って言うかもしれないが、それが高い価値のあるものかどうかを決めるのはその方ではなくて僕である。

同じように、僕が誰かのスマホの問題を解決してあげたときに僕は「こんなの別に大した知識じゃない」と思っていても、そうは思わない方にとっては高い価値となるのだ。

ボランティア(volunteer)とは本来は軍事用語で「志願兵」という意味合いで使われてきた。それが「志願者」「金銭を得ずに働く者」という意味に拡大していった。

現代日本語の「ボランティア」という定義を受け入れてしまうと、提供者と受益者というアンバランスが発生する。サービスを提供する側が金銭を求める場合は従業員、求めない場合はボランティア、という使い分けだ。一方で受益者は金銭を払う場合は顧客と呼ばれ、払わない場合は受益者となる。

これは実際間違った認識であり、以前も書いたが「非営利団体」は利益を追求しない団体のことではない。利益を出資者に配当しないのが非営利団体である。また、非営利団体は、志願者を拒むことができない。さらに、志願者の活動に対して報酬を払うことは禁止されていない。営利企業の場合は従業員に最低賃金以上の労働対価を払わなければ労働基準法などに違反することになるが、非営利団体の志願者の労働対価を払うか否かは組織に委ねられているし、最低金額の規定もない。

先日、キューブカフェによく来店される方に「ここはボランティアで成り立ってるから」と言われてがっかりした。初めてきた方ならまだしも、何度も通ってる方にすら理解していただけていない。これは我々の情報発信がまだまだ不足しているということだ。

キューブカフェには提供者と受益者の区分はない。僕やまみさんが提供者だとしたら、料金が発生せざるを得ないことになる。そして受益者は、そこで得た価値の対価として金を払うと思い込んでいる。それが100円だから「安い」と勘違いされてしまうのだ。

そうではなく、皆さんが払っている100円はあくまでキューブカフェという場を存続させるために必要な経費でしかない。そのお金はキューブカフェを通じて土と緑に対して支払われている。

価値は、経験を積んだ年齢の高い人だけが持っているわけではない。若さゆえに持つ価値もある。年齢はまったく関係ない。たとえば若い人のフレッシュな意見を聞くことができるだけで価値だと思う人もいる。

ボランティアを募集して提供者と受益者を成立させていくスタイルは、これからの地域「活動」を活性化することに繋がることが実証されているが、それは決して「地域生活への定着」に繋がることが約束されるものではない。むしろ定着は困難である。不自然な形態を定着させることは不可能である。なのでその活動を継続させるためには「労力をかけ続ける」という犠牲が必要になってしまうのだ。その犠牲を「やりがい」と勘違いしてしまうと、こんがらがった事態になる。このような状態になってしまった組織・団体をたくさん見てきた。

本当にいいものは意識的にマーケティングする必要もなければ、PR(Public Relationship)に戦略を立てる必要すらない。もしそれが必要になってしまうのだとしたら、やっている事自体に問題・課題が内包されているということなので、その問題・課題に向き合うべきなのだ。そして世の中にとって本当に必要とされていないのであれば、潔くその活動をやめる勇気こそが、組織・団体のトップに求められる決断力のひとつである。

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