合理的な判断を根拠に決定・実行をした結果が不条理になることは日常的によくある。
「理不尽」という言葉を分解してみよう。「理(ことわり)は尽きない(不)」ということ。
「一理ある」という言葉からも示されているように、事象に対する観察は、(1)観察者の数だけ多様性を持っており、(2)破綻のない合理的な筋道は無限にある、という摂理について書いていこうと思う。
あなたとわたしは2人掛けの席に、テーブルを挟んで対面して座っている。テーブルの上にはマグカップがある。あなたもわたしも同じマグカップを見ている。しかし見ているものは同じものではない。あなたはマグカップに印刷されているキャラクターの絵がちょうど見えていて、マグカップの取っ手は右側に位置しているように見えている。わたしはキャラクターの絵が見えないし、取っ手は左側に位置しているように見える。
マグカップに印刷されているキャラクターや取っ手の位置は、比喩だ。
これを分子・原子・素粒子のレベルにしてみよう。わたしが観察しているものと、あなたが観察しているものは、まったく異なるものである。
ここでもうひとつ重要なことは、「マグカップ」という認識はわたしたちの脳が規定してしまった常識による、ものごとの錯覚にすぎない。実際には珪素や炭素などの分子で構成されたものがテーブルを構成する分子たちとは接触してはいるものの融合していないかたちで存在しているだけで、マグカップという認識は「知識」という名のフィルターによってもたらされているだけだ。
たとえば猫はマグカップを見て「マグカップだ」とは思わない。
ものごとの真理を抉るような観察において、知識は障害にこそなれ、役立つことはない。知識は分類と利便性における効果をもたらすものである。
さらにそのマグカップが、あなたとわたしで同じ形・同じ色・同じ質感で認識しているという証拠はひとつもない。たとえばセラミックという材質に関する知識・経験・印象というフィルターも人それぞれ異なるためだ。
合理というものには限界がある。
たとえばそのマグカップを床に落としたとしよう。
その瞬間もしかしたらあなたは「割れる」と思うかもしれないし、一方でわたしは「床で跳ね返って割れずにバウンドする」と思うかもしれない。
なぜ割れると思ったのか、あなたはその理由を合理的に説明することが可能だ。そしてわたしも、なぜ跳ねると思ったのか、その理由を合理的に説明することが可能だ。
このようにして理(ことわり)というものはいくらでも、無限に、生成可能であるということが説明できる。
この世界に生きていて、ちょっとした注意を喚起させる単語がいくつもある。たとえば「常識」「当たり前」「そうに決まってる」というのは、なるべく使いたくない単語だ。
合理的な判断というものは、想像を絶するほどに不確定なものなのだ。記憶・経験・知識にはすべて限界がある。世の中には知らないことや経験していないことのほうが多いのに、脳はそれまでの経験や知識だけをもとに判断したがる癖があるようだ。
そこから脱却してくると、理屈をベースに様々な未来をアセスメントすることにはほとんど意味がないという結論に近づいてくる。
傾向、分析、確率、統計。そういったものは過去を知るためにとても参考になるツールであるが、未来を当てるためには実際には役に立っていないのだ。ではなぜ役立っているように見えるのか、というところに議論をフォーカスしていくべきなのだ。
なぜ傾向分析や確率統計が未来予測に効果があるのかというと、観察によるエネルギーの実体化つまり波動関数の崩壊そのものが、粒子を自由な波の状態から、円環に閉じた状態つまり粒子という人間の五感で認識可能な状態に変化することと深い関連がある。波動関数の崩壊は、観察によって起きる。観察の際に確率分布が有効なのは、常識によるものだ。だからといって確率の低い座標で物質化が起きないということではない。多元宇宙的な解釈によるならば、すべての可能性が生じた宇宙が同時多発的に存在するので、マグカップはあらゆる可能性を包含している。
多元的かつ無限の可能性の中から次の瞬間に繋がるstring(結合する紐)を選択する自由は、自由意志に与えられている。つまり信じたことが現実になる過程とはそういうことだ。では複数人で観察している場合はどうなるか。ここで自他の概念における他人の意識というものを計算に入れる必要はない。自分にとって他人は自分以外の要素でしかなく、自分が信じたことを他人が信じるかどうかすら自分が信じるか否かにかかっているということを突き止めるだけでよい。これを自信という。
決定は論理ではなく直観にあるのだ。(直感ではない)
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