もともと強いエンパシーを持っていた僕は、相手の恋愛感情を感じ取ってそれを忖度していただけに過ぎなかった。恋愛というものに対して共感はできても理解ができなかった自分は、人として何かが欠けているのだろうと思って引け目に感じながら生きていた。
しかしやがて、共感する(相手から受け取る)恋愛感情は、自ら発する恋愛感情とは違うものだという認識をするに至る。自ら持ったことのない感情を、自らのものではないと認識するまでには、当然のことながらさまざまな客観的事実とか、論理的な判断能力を要したのだ。
恋愛というものは幻想に過ぎない。恋愛とは何かについて答えを得て、永遠の検証フェーズにあるので、今更語ることもあまりないのだが、やはり言語化というものはとても面白く僕の好きなジャンルのひとつであるため、新たな表現がしっくり来ればここに書くことになるのだ。
恋というものはやはり僕の辞書には存在しない。愛というものは普遍的に存在する。人はそれをただ避けたり否定したりして遊ぶことで擬似的に恋とか愛が偏在的なものであるように見せかけたくだらないゲームをしているだけなのだ。
FtXの方と知り合い、なるほど概念的に理解してたXジェンダーってこういうことなのね、ということを体感的に得た。ならば僕はMtXである。しかしこれこそが本来の人間がごく自然なかたちで持つ他者と共有する幸せの具現に近い物事の捉え方であると思う。
僕は性別を生命学的な器質の違いという捉え方の他に依るべき根拠がない。男であることや女であることは感覚的・直観的な扱いこそあれど、それ以外の差異を認めることがなく、ただただそこは目の前に命があるということだ。
Xジェンダーやポリアモリーと言ったスタンスの枠組みは明らかに自由傾向であり、本質的なアプローチである。その先には博愛や慈愛にたどり着く道がある。しかしそれらの言葉もある傾向を示す部分的な説明にしかならない。人を愛するということにイデオロギーやドグマは要らない。単純なことで、愛するということはすべてを受け容れるということに他ならない。自らの存在を無条件に愛することができなければ、他者を同様に愛することはできない。言い方を変えれば、愛の深さはベクトルを問わず己の内面的な理解を根拠にした許容量を超えることはできないのだ。慈愛は平等の中にのみ存在し、それは自らもこの宇宙のひとつの生命として尊厳を認めることと同様に、他者も認めるということだ。
薄っぺらい博愛というものはこの世に存在しない。愛を騙る詐欺師はこれをよく使う。しかしそのような軽薄な扱いの愛は欺瞞にあふれ、行動は矛盾に満ちている。
愛せないという制約が行動にバイアスを生み、不安定をもたらす。その不安定を感じ取ることにより関係性において理解できるイメージがある。愛せないものがないということが誰にでも可能なエネルギー的に安定した状態であるということを認めさせないために身勝手な都合の押し付け合いをしてしまえば、偏在的・局所的なエゴがまかり通る。これを愛と呼んで美しいものであると持ち上げようとする行為に対して僕は生理的な嫌悪感を覚え、ストレスになる。だからそういったものからは一旦身を引いて観察しながら、その行為から得る嫌悪と、それを発するもととなる人との分離を試みる。イデオロギーへの嫌悪はあっても生命の存在そのものの否定はあり得ない。
求められたものを与えることが現実的に可能なのであれば、それを与えんとすることを躊躇う理由はあるのだろうか? 愛は有限のものだという幻想もまた、人が人を制御しようとする奥深い罪のひとつである。愛を与えることにコストはかからない。お金や時間というものの存在や使い方にどのような考え方があろうと、お金は人為的な道具でしかないし、有限だと確信したい人には有限が望み通りに与えられ、無限の世界にいれば無限だ。時間というものはそもそも不可知の現象を説明するための便宜的な概念でしかなく、実際には存在しない。限られた時間ということについて死のタイミングを知らぬ者が語る資格はない。これを否定するものは、来年の話をすべきではない。鬼が笑う。
仮に人生が「すべてのやりたいことをやるには足りないほど有限」だと定義されたとして、それを信じるのならばなぜ今この瞬間を無駄にするのだろう? また、有限な時間の使い方は自分が得をするゴールであるのならば、お金・名誉・名声などを上げていくことに人生の時間を使うことが、本当に価値あることには僕には思えない。僕にとってもっと大切なことは、目の前にリアルにあるものや存在するいのちを尊重することだ。僕は自分だけ幸せになりたいなんて思いもしない。そういうことはやろうと思えばいくらでもできるし、実際できることを確認するための経験もした。何度も繰り返す必要性を感じないし、クリアしたことを繰り返すのは、それこそ時間の無駄だ。もっともっとチャレンジしていたい。
目の前の人を心底愛することができれば、その見返りは期待せずとも当然の因果関係として訪れる。わたしはそれを幸せと呼んでよいと思う。幸せはさまざまな形態をとるが、これも間違いなくそのひとつである。なぜならわたしは人と関わることで、何かとてつもなく貴重な、そして繰り返し不可能なことを自分以外の誰かと共有できているという奇跡に喜びを覚え、この瞬間を体験していることに感じるそれが、幸せだと体感している。
Xジェンダーも、ポリアモリーも、理解されにくい。それどころかLGBTを「セクシャルマイノリティ」などと呼ばれているいま、社会認知はまだまだその何段階も手前にある。これはセクシャルな話ではない。人として慈しみをどう捉えるかの問題であり、多くの自己愛性パーソナリティ障害を克服できていない段階の方々には理解のしようもないこともわかる。そしてこれはマイノリティの話でもない。イノベーターに近いもので、まだまだ多くの方々がその段階に達していないだけなのだ。マジョリティを「常識」と呼び、その常識外にある考え方をすべて劣ったものと認識して疑わないことがどれほどの罪であるのかについて、「THE 現代人」は忙しすぎて考えない。
わたしはわたしで、それをどう評するのかについて制御するつもりもない。ただ内なるものはきちんと言語で表現できるだけしておこうと決めているだけのことだ。
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