意思とはおそらく無関係に、我々はエネルギーの使い道を必要としている。運動にたとえてみよう。食事から摂取するエネルギーが生命活動維持のために必要であるという論理が成り立つのならば、毎日食事によって得るエネルギーはどこかで消費されなければ太っていくばかりだ。
同様にして好奇心もある。知的活動がなければ増大した何かが確実に精神を蝕むわけで、人は考える葦として精神活動の矛先を欲している。これが満たされないままでいると異常行動や発達の偏りなど不都合な結果を生みやすいし、歳を取るまでその状態を維持したらそりゃ認知症にもなりますよって。
好奇心を知的活動につなぐ導線が必要だ。「考えることはめんどくさいこと」なんて思ってる人がたくさんいるのは、詰め込み教育の副産物です。PTSDでしょう。知的活動は魅力と可能性にあふれている。
幸いなことに僕は物心ついた頃から知的活動の対象に事欠かなかった。積み木、ブロック、人間関係、コンピュータ、野山、凧揚げ、などなど。悩むということは素晴らしいことだ。
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