決壊と結界

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今回はと言うべきか今回もと言うべきか、怒涛のようなsolutionがやってきて、多くの方に支えられた。

理解者は寄り添わず、少し離れたところから見守ってくれている。

伝え聞いた話ほど不確かなものはない。自分で見て確かめる。

今回わかったこと:

  • 生活保護や障害者年金の本来の意義とは異なる身勝手な使い方をしている国民は実際に存在する。
  • 人種やLGBTなどのマイノリティ差別を助長しているのは、一部の運動家たちであり、そういった人々は魂の共有や真の公平性を目指しておらず、無い物ねだりをしているだけ。それが、公平性を目指して人生を懸けている者と同じコミュニティにいる。
  • 自立支援や就労支援など、公的な補助金の入った仕組みは、一言で書ききれないほどの闇を抱えている。そしてそれらの根本原因はカネへの依存である。
  • 世の中にはやはり、無償の愛を信じていない冷酷な人たちがいる。

これらの事実を踏まえて消化したところで、僕の学びは一段落を終えた。

自立なくして本来の自由など存在し得ない。それがわからずに自由を叫ぶ者は、自由のために勇気と行動を伴っている者からは相手にされないだろう。

自由と責任というものは以前も書いたように表裏一体なのだ。

それは人間が決めたルールではなく、水が高いところから低いところへと流れるような自然の摂理で、誰にも曲げることができないのだ。

野良猫は自由と引き換えに生命の責任を自ら負う以外の選択肢がない。わたしたち人類も同様である。この世に生まれ落ちたその瞬間から、自分の行動の責任は自分で負う以外にないのだ。たとえ未成年であろうと、死に至る危険なことをすればきちんと死ぬ。本人以外ができることといえばせいぜい警告するくらいだ。

こんなに明白なことを理解できない社会は、依存に満ちている。誰か別の人間のせいにしたところで、何も意味もないのに、他人のせいにしたがる人が跡を絶たない。

向き合う覚悟がある人を無碍に追い返したりはしない。僕にとって「来るものは追わず、去る者は追わず」はいまのところ鉄則である。

対話の意思がない人間に伝えたいことを発信しつづければ「スパム」と言われる。そんなことは百も予想済みである。しかしそこで発信しないで後悔するよりも、きちんとこちらの考えや思いを伝える努力を最後まで果たすほうが後悔がない。

見たくないものを見る勇気のない人間が一定数いることは知っているが、「こいつは向き合えないだろう」と決めつけて、突きつけもせずに断ち切るようなことはしない。

最後まで伝わらない人のほうが多いのかもしれない。しかし少数かもしれないが、こちらの伝えたいことを理解してくれたり理解しようとし続けてくれる人は存在するのだ。その繰り返しによって、甘えのない素晴らしい愛情のある関係性がひとつずつ、増えていく。

耳を傾けてくれる人がいる。だから僕も耳を傾ける。

僕はLGBTという言葉は知っていたが、それについて深く調べたり考えたりすることはなかった。そんなことを考えている暇がなかった。

僕は男女を差別する言葉に常に傷ついて生きてきたが、それは自分のものであるので、傷ついたことを他人に主張することに意味など感じたことがなかった。ただ、傷ついていることをきちんと表明することは、愛情関係にある相手にはとても大切なことだ。

初対面の相手を「かわいい」とか「好みのタイプ」とか表する同性の言葉を耳にするたびに吐き気を覚えた。エンパシーによって恋愛感情というものがどういうものかは体験できるけれども、どうして恋愛感情を持つのか、また、そんな意味不明なことを自分に許すのか、理解できたことなど一度もない。

同様に「ブサイク」とか「キモい」なんてのも、吐き気を覚えた。

どっちも同じことを言ってるって、わからないのかな。方向性が違うだけで、同じ差別です。人を見た目だけで判断するとか。そうやって異性に対する差別視すら理解しようとしない人が多い環境のなかで、男女という性やジェンダーについての差別を理解させようったって、モノには順序があるわけで、無理があるのだ。まず、愛情とはなにかについて勘違いのこんがらがった糸を解いてやる必要があるだろう。

ともかくまあ、いろいろとありましたが、事が進むにつれて様々な感情の飽和というクライマックスをいつも通り観てとり、そろそろ限界が来たなと思ったら、やはりそれは来た。

離れるべくものは離れ、惹かれるものは惹かれた。ただそれだけ。

僕という主体は傷ついたように感じたが、わたしは傷つかない。自然な流れであると感じる。

さようなら、頑固者たちよ。

同じところでぐるぐるする仲間にはなれないよ。僕は先に進むから。

そうしたら、プライベートでとても幸せなことがたくさん起きた。ビジネスでも次々と不思議な問題解決と未来の展望が舞い込んできた。ここ2日間くらいの話である。

心がまた風のように軽くなっているのを感じた。今回も重かったなぁ、いろいろ。

誰も僕の結界を破ることはできないのだ。人格攻撃なんて効くはずもないばかりか、攻撃する者にそのまま跳ね返っていくから、やめたほうがいいのにね、とひとりごつ。

僕の結界は、世界平和であり、いまという瞬間を生きている喜びを受け取ることであり、好きなことを続けていく幸せであり、人をより広く愛していくということだ。

重く暗いところにあえて飛び込んでみて、前が見えなくても進んでいる感覚が弱まっても、きちんと一歩一歩、足を踏み出すだけ。それでこのように、いつしか結果が現れるのだ。

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