自問自答

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『自問自答1』

人生の先輩方が僕に伝えようとしていたこと、それは
僕がチャレンジしていないということ。

僕はいつのまにか、口だけの人間になっていた。そうだろう?(誰に向かって問いかけているのか)
僕は挑戦しまくってると思いこんでいた。
やり方が違う。
安心してやれる挑戦なんて存在しない。
だから、過去の挑戦と同じことをしても、
それは挑戦とは言わない。
うまくいくことが分かっていることをやることは
挑戦ではない。

カーーッ!
なんて厳しい世界だ。
そして、
なんてワクワクする世界だ。

怖い、怖い。
でもやめるのはもっと怖い。

なにもかもを捨てて前に進むときに
自分を引き止めるもの、後ろ髪を引かせるもの。
それこそが、未練であり、
生きている限り、こびりついてしまう煩悩じゃないか。
あれだけの経験をしておきながら、
僕はまたいつしか、守りに入る理由ばかり述べている。

そんな自分が胸糞わるくなるから、
僕は前に進む。

そんな勇気をなくしてしまったのは、なぜか。
心臓のせいにするとか、もうね、
自分がキモすぎて笑ってしまうわ。

僕は等身大の未熟である。
それを心していかないと、
いつのまにか自己認識は増大して、
とんでもないエゴだらけのクソヤロウになってしまう。


ここまで振り返り、さらに視点を変えて振り返る。


『自問自答2』

いや、僕は僕なりの限界のなかで
責任ある主張と実践をやってきた。
口だけの人間?
違うだろ。

きちんと自分がやってきたことを認めろ。
己をまっすぐ見つめるということはとても難しいことだが
それを放棄することこそが、無責任というものだ。

感情面で己を評価することと、
感情抜きで己を評価すること。
この両輪をすべて立てなければ
真理は見えない。

自分がどう思ってきたか、
自分の思いに忠実であったか。
それを冷静沈着に評価することは大切なことではある。

ただし、それだけでは、もう成長はない。
そういう段階の挑戦にあることを自覚せよ。

社会に触れ、革命を起こすためには、
そのような責任を、自分ごとにできる人格が必須だ。

背伸びしていては決してできないことだ。
背伸びしようとしている己を感じたら、潔く手放せ。

そうでなければ、人々を不幸にする。

『自問自答3』

では実際に、わたしはどうであったか。そしてどうありたいか。

行動しているのに行動していないと言われてきたのはなぜか。

友人たちはわたしの行動を理解してくれている。
否。

わたしを理解している友人に理解されて安心している、
それこそ、馴れ合いではないだろうか。
わたしの大嫌いな。

馴れ合いを超えて、誰にも理解されなくても
その先に飛び込む。
これがいま、足りていないのだとしたら、
浅知恵を絞って、すべてが調和したように皆が納得するアイデアで
小賢しく動き回っていても、もう前進できないのではないか。

だとしたら、
現実を見据える段階に来ている。
無我夢中で掘り進めたあとは、
自分で開けた穴に飛び込むってことだ。

恐ろしい。

しかし飛び込まない選択をしたら、
僕は死んだも同然じゃないか。

やりたいこと、という問いは
深すぎる。

できない理由に囚われるな。視点を変えろ。
常に変え続けろ。

もうすぐ何か、大きなものが理解できるような感覚がある。
さっき瞑想でつかみかけた、おおきなもの。

自分を変えることを恐れるな。
そこまで変えるなんて、自分を見失いそうだが、
それをやらないと、次がないだろう。

『自問自答4』

行動力の使い方に無駄が多すぎる。
効率厨になるのとは話が違う。

品川での活動は終わったが、
なにかまだ昇華していないものがある。

ひとつひとつ、振り返る。

僕が周囲と不調和を起こすタイミングに、
ひとつ共通性のあること。

それは、
他人をいたわる心にダメージが入ったときだ。

思い入れ。

  1. 品川拠点で、ある人が想いを込めて作った手作りの(手描きの)ポスターが貼られていた。そこでイベントをやりたいという人が、イベントの準備のため、一時的にそのポスターを剥がしたいと言ってきた。僕はちょっと不本意だったが、【好きなようにやりたいのだろう】と思って、それに合意した。すると、剥がされたポスターは、裏についていた両面テープがついたまま重ねられており、無残にも剥がせなくなっていた。僕は、このポスターを作った人の想いを土足で踏みにじるようなことをされて、どんなに良いイベントを開催したところで、足元で身近な人を傷つけるようなイベントには違和感しかなかった。それを指摘したところ、イベントを開催した人に逆ギレされた。
  2. 品川拠点で、ある曜日にお店を出したいという人がきた。お互いにプラスがあること前提でやろうということになった。お店のことも当然、できることをしようと協力したく、ちょくちょく顔を出した。すると「あのひと、わたしたちの曜日にいつも顔と口を出してきて、キモい」と苦情を言われて、落ち込んだ。
  3. ある大学生が品川拠点でイベントをやりたいと申し入れてきた。自分でやるイベントなのに、誰よりも遅刻してきた。準備もまったくできていなかった。わたしたちはそこで手を出すべきじゃなかったのだが、ついつい客のためにフォローしてしまった。そのままでは、客が何も食べられず何も飲めずに終わるところだったからだ。僕はかなり勇気を出してその大学生に苦言を述べた。その大学生は「今までそんなことを言ってくれる人はいなかった」と喜んでくれた。ところがその大学生のまわりの友人たちは「そんなことを言ってくるやつは偽善者だ」とか「上から目線だ」と批判を繰り返しその大学生に言って、その大学生は迷い迷って結局僕との関係性を断った。
  4. この2年間の活動成果を報告したかった人が南会津にいる。報告できるのを楽しみにしていた。電話をしたら開口一番「成果を出せない人と、会うつもりはありません」と言われ、成果を共有する前に絶たれてしまった。

もっと早く成果を出せなかったのは、なぜだろう。
わたしは、成果を出せない人間なのだろうか。
わたしは、成果から逃げているのだろうか。
他の人たちは、もっと効果的に成果を上げられるのだろうか。

だとしたら僕は、木偶の坊であるのか。
だとしたら僕は、口だけで行動が足りない人間なのか。

こうして僕のまわりから人が去っていくのはなぜか。
楽しい結果を追い求めて、悲しい結果になるのは、なぜなのか。

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