去り際

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久しぶりに悪夢を見た。悪夢なんてもう見ないと思ったのに、僕はどうやらいつの間にか自分の力を過信しすぎていたようだ。僕にも恐ろしいものがあった。それは最愛の人を失うことだ。

深く反省した。人に与えているものなど言い訳にすぎない。踏み込んではいけないボーダーラインが見えた。僕がいま誠実に向き合うべきものは、僕が昨日のキューブカフェで力説したことそのものである。

それは、「己のやりたいことに集中せよ」である。

やりたいことは日々変化してゆく。

いま、心に浮かぶままにこれを書いているが、だんだんと輪郭がはっきりしてきている。

後戻りしたくないならば、前に進むために全力を出さなければならないということ。僕はいま自分自身に対して誠実に生きているのかというと、わからないとしか言えない。それはマジでおかしなことだ。だって僕は手を抜いてなんていない。けれど、自分自身が頭で作り出した理由に依存し始めているのではないか? という疑問が湧いてきた。それは今日、悪夢を見てからわかりはじめた。

僕がここしばらく引っかかっているのは、キューブカフェにあまりにも傾倒しすぎているのではないかということだ。僕がいまやるべきは、キューブカフェよりもQ3のことなのだ。苦しくても進むべきはそちらだ。キューブカフェは苦しい時期を超えた。手放す時期がやってきたのだ。

弱い人を救おうとする心は、危険な兆候だ。それができるのは神だけだろう。人が人を救うなど幻想なのだ。僕は明らかにキューブカフェで見失いはじめている。

たいせつなものを失いたくないならば、いますぐに行動を変えよ。
誰も教えてくれない、教えてくれるのは内なる自分だけ。夢にそれが現れたのだ。

ここ数年感じ得なかったタイプの危機感が僕を突き動かしている。いま僕は危機感でいっぱいだ。所詮この程度の人間なのだという等身大の認識をもって、自分の心のブレがなくなった感じすらある。

僕はキューブカフェで期待されすぎている。それも離れるべき理由のひとつだ。ひとの価値は、成功者だけの甘い果実ではない。すべての人にある。僕がこれ以上留まると、そこに良い影響は期待できないのだということがわかった。

旅立ちのときは、いつでも突然やってくる。

人生の伴侶とは、どんなに離れていても、心はひとつなのだ。そこは堅牢で、柔軟で、なんの疑いもなく純粋であり、不純になる余地もなければ、破壊される余地もない。

僕はその原点に立ち返ったときいつも、征くべき道が光り輝いて示される。

創造の神、ブラフマー。
維持の神、ヴィシュヌ。
破壊の神、シヴァ。


迫さんの言葉が一字一句まで鮮明に頭に浮かんでくる。

世の中の人を2つのタイプに分けるとしたら、0から1を作るのが得意なタイプと、1を10にするのが得意なタイプがあると思うんです。林さんはその両方ともこなせてしまうのですが、どちらかというと林さんが得意とするのは、0から1を生み出すところだと僕は思っています。

なかでも本領発揮するのは、0から0.1を生み出すところだと思うんですね。だから林さんは、林さんが生み出す0.1を理解して、それを1にしてくれる仲間を増やしたら、いろんなことがうまく回りはじめるんじゃないかなと思っています。

これは捉え方によっては、とても過酷な試練を告げる言葉だ。でも僕はその試練を受け入れることができる。なぜなら今までは頭で理解していなかっただけで、どうしてもそうなる運命としか思えないほど、その試練ばかりだったから。

その試練とは、迫さんの論法を使わせていただくと、こうなる。

【0から0.1】を作りなさい。そして【0.1を1】にする者を得たら、それをきっぱりと捨ててしまいなさい。
そうすることで、また新たなる【0から0.1】を作るための、あらゆる準備が整うから。

上記を簡潔に書き直そう。

創造せよ。創造を発展させる者を得たら、創造したものに対する執着を一切捨てなさい。

僕はいま、大いなる学びを得た。悪夢をきっかけに。

創造こそが、我が生命をこの宇宙に得た理由なのだ。

創造は、勝手に降りてきたものを表現するだけでよい。神から承る神聖な種だ。

それを芸術に昇華させるのは、わたしの使命ではない。芸術まで昇華するものは、価値あるものの証。当然そこまで昇華できない無数の種もある。

わたしは種を植える。あとは太陽と大地とこの世のあらゆる法則に委ねるだけでよい。

人にはそれぞれ、異なる使命があるのだ。

創造を発展させる者。種を発芽させる者。その者は、土に種があることを信じて、世話をしてくれる者。弱き者が弱き間だけ、保護してくれる者。人はそれを、守護者や保護者と呼ぶ。


思い返してみれば、常にそうしてきた。

E社の最後の仕事、新サービスのPoCプロジェクトが、真っ先に思いついた。同僚たちに何度も警告されたのだ。このプロジェクトは誰も成功しないと思っている、と。逆にそれが僕を奮い立たせた。そしてPoCを終え、契約は契約のプロに任せた。やれることはすべてやったから、あとは任せるだけだった。さらに僕は、このプロジェクトを大きくしていく任を上層から与えられようとしていた。しかし僕は次なる新天地に向かう準備をしていた。なんの約束もない荒野。僕がそのプロジェクトでたいせつにしてきたことはたくさんある。「一期一会で世界中から集まったメンバーが、心に残るような過程と成果を出すこと」「全員が必要な役割をもち、協力しあうこと」「楽しむこと」「若いメンバーが、次のステップに進めるための最高の舞台を用意すること」

かくして僕は、たいせつにしてきたことを全て守り、実現した。PoCは大きな契約を呼び、大事業になる可能性を僕に見せつけた。これは大きな木になり、それはやがて森になる。そのときその中心にいるべきは僕ではない。僕はなかば強引に、当時のメンバーだったKさんやAさんにそれを委譲した。当人たちは戸惑っていたし、それが意図されたものであることは今でも知らないだろう。なぜなら僕は、E社を辞めたからだ。多くの人たちに「無責任」と呼ばれた。これから大きくなるであろう仕事を投げ捨てて自分勝手に去っていくのかと。

なんとでも言うがいい。

0から1を生み出す人は、称賛される。
1から10を生み出す人は、尊敬される。

しかし0から0.1を生み出す人は、ごくごくわずかな理解者以外の人たちには、一切理解されないのだ。

理解してくれる人は、まったく依存心のない、まっすぐに物事を見ることができる、本当の意味の大人である。そして僕を正当に評価できるほどに、理解する努力をしてくださる方々なのだ。


またしても突然突きつけられた、キューブカフェからの卒業。

今回なにが試練なのかというと、一言。

立つ鳥跡を濁さず

すべての点と点はつながる。そのつながるものを、たいせつに。しかし依存心は、去る側も、残される側も、完全に断ち切る必要がある。

だから、僕は銀の太刀の封印を解き、斬る。

銀の太刀のほんとうの意味は、僕以外誰にも理解できない。何人かに説明を試みたことがあるが、やはり言語というものには限界がある。

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