感性に響くこと。言い換えると、無意識に刺激を与えること。これをやっていると、必ず現れるタイプの人たち:
- 頭ごなしに否定(頭カチコチ民)
- それっていいよね♪ LOVEサイコー♪ あるがままでいいのね♪(ハッピーヒッピー民)
僕はそのどちらのタイプと面したときも、溜息しか出ない。怒りすら覚えることもある。どうして怒りがこみ上げてくるのかわかる? これって、差別やいじめと同じことだからです。
子どもでもできる、超かんたんなことが、できない大人がたくさんいる。
頭がいいとか馬鹿とか生まれがどうとか障害があるとかないとか、関係なくできること。
それはね……、
「相手の話を真剣に聞く」
ってことなんです。
ね? できることでしょ? 才能とか関係ないでしょう?
それをしないってことはね、普段から「心のこもってない人間関係」をダラダラやってしまってる証拠でもあるんですよ。
だって僕はいつだって人の話を聞くときは、相手が何を言いたいのか、超マジで聞くから。
じゃあどうして僕はそうなのだ? どうしてこんなマジなのだ?
答えはいろんなところにある。僕は何度も何度もこのブログで繰り返してること。インフォカフェでもキューブカフェでも過去の職場でも僕の会社でも友人との会話でも繰り返し言ってる。
「人生は今この瞬間よりも過去のことしか確定してない」
「人間いつ死ぬか誰も知らないけど、いつか死ぬのは確定してる」
「いまこの瞬間という奇蹟を僕はたいせつにしたい」
その根源を辿れば、それが何なのかわかる。
それは好奇心であり、
その源泉には、アガペーという関係性があるのだ。
それは神が慈悲に満ちた眼差しでわたしたちを視野に入れているのとおなじで、
わたしたちは、愛されているということに他ならない。
機会。
そう、機会というものは、無限にあるわけじゃない。
僕は今日(2022/09/11)、荒井リサさんの「LiSAメソード」の教え子たちの発演会を体験してきた。リサさんは、僕が書いていることがわかると思う。
ほかにも僕は友人に恵まれていて、魂や心という、目に見えないものについてどう捉えているかという部分で共感できる友人が、複数いる。そしてそのひとりひとりが、強烈な独自性をもっていて、代えがたい価値として燦然と輝いている。オンリーワンだらけなのだ。
リサさんもまた、今までにないタイプの輝きを持っている。また新しい宝石を見つけてしまったようだ。
リサさんにとって「とっても簡単なこと」が、他の人にとって簡単じゃないのはどうしてか。それは理論とか説明の問題ではなく、刈り込まれていない感性を持っているかどうかです。
リサさんはおそらく、伝えたいことが伝えられない苦しみから、ご自身の説明能力や論理性について相当自信をなくされている。けれども僕はそんなことはないと断言できる。
なぜなら僕が最初に、リサさんの教え子さんのお父さんが作っているという「おしえて、リサ先生」というYouTube動画を観たときに、僕はリサさんの数ある才能のひとつに触れて、感激したのだ。
リサさんは、感性豊かな人として、簡潔でわかりやすい説明ができる。そういう人は、相当に頭がいいのだ。
難しい話ができる人は、中途半端に知性が高いだけだ。これは、たとえば「お受験」で東大に入るとか、どこかの医学部に入るとか、そういったレベルのことで、僕が「秀才」と称する人たちだ。彼らの特徴は、他人の言葉を借りる。僕は秀才によく噛みつかれるので、正直なところちょっと苦手意識がある。
本当に頭がよい人は、難しい話を簡単に説明することができる。これは頭がよいだけではダメだ。しかし頭がよい人は頭がよいが故に、頭だけじゃ片手落ちだということも理解しているから、体力も精神力も高める努力をしているし、瞬発力も高い。やると決めたらその瞬間から身体が動くタイプだ。
いまのリサさんにおそらく必要なのは、よき教え子でもファンの親でもなく、よき理解者だ。
いちばんの理解者はリサさんのすぐそばにいる。娘さんの、ひかるさんだ。
そして僕が現れる羽目になる(羽目になる、と書いたのは、これが避けようのないタイプの運命や使命に近いという意味で、災厄のような意味ではない)。僕が繋がるということは、僕にとって啓示でしかない。だいたい、意味のないことなんてひとつもないのだから。
これだけビシバシといろいろ起きたら、相当に鈍感な人間だって「これは流れだ。これはご縁だ。意味のある出会いだ」なんてわかる。
これは神のご褒美だ。新たなるステージであり、新たなる挑戦状であり、新たなるプレイフィールドである。僕はまた、己の限界を引き上げて成長するための楽しい場に繋がったのだ。
ああ、マジメに生きててよかったな。そう思う瞬間でもある。
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