常識という非常識

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まさにキューブカフェで感じてることに通じる内容が多くあります。成田さんはデータから推論し、キューブカフェでは目の前の実績から推論している。

「高齢者の労働」に関しては、これまでの常識とはまったく異なる捉え方が必要と思います。

少なくとも僕は、次のように思っています。

・高齢者の資本経済への関与のしかたが若者のそれと同じであるべきというのは誤った先入観だと結論付けようとしています。

・すべての高齢者が弱者であるという十把一絡げな認識は即刻改めるべき。

仕事以外に生きがいを見つけることができなかった労働者が定年退職したとき、労働による価値基準、資本社会による価値基準でしか社会に対して貢献する手段を持っていない、あるいは持っていないと思い込んでいるケースがとても多く目にします。

一方で、普段から物事に対する好奇心を行動に反映して生きてきた方は、労働による自己肯定感を必ずしも必要としていないため、定年後も活力に満ちているのですが、日本の全体からみればこの数は圧倒的少数なのでしょう。

これまた個人的な実感ですが、「やりがい」を失うということは「目的」を失うことと因果関係にあり、それが認知症と相関関係にあることを強く感じます。

若者から高齢者までの尊厳について深く追求した社会をデザインするとすれば、それはそれぞれのジェネレーションが感じている軋轢や共通課題を浮き彫りにして理解することがまずスタート地点だと思いますし、キューブカフェではその生の声を聞くことができているため、現代の社会問題が具体的にどのように作用しているのか、明確に浮き彫りになってきているように思います。

具体的なケースをいくつか挙げると:

  • 苦しんでいる若者をサポートして、社会とのつながりを感じることができている高齢者の方
  • 上記を逆の視点で言えば、高齢者の知恵を引き出して社会参加の機会を与えている若者の方
  • 世代間のギャップ、生き方や業界の違いにより見えなかった課題が、枠を超えて共有され、思わぬ解決に進んでいく

これ以外にもいろいろ思うところがあります。

社会活動や福祉活動のなかには正直なところ、それって高齢者のためになるどころか、逆効果になっちゃってるんじゃないの? って思うようなものもありますし、さらには低賃金で苦しんでいる若い世代の方をさらに苦しめる結果になってしまっている活動も多くあります。

でもこういうことって、悪気があってやってるどころか、世の中の役に立つと思ってやっていらっしゃることばかりなのは重々承知しているので、直接指摘して嫌な思いになりたくないものです。でもどこかでうまく指摘していかなければならないんです。

このような指摘が難しいのは、やはりその社会活動や福祉活動そのものが、活動している方々にとってもあまりにも重要な「生きがい」になってしまっているからとも言えます。

当人を批判しているのではなく、行っていることの結果(アウトプット)が弊害を生んでいるという客観的事実を指摘したいだけなんですが、これがまた難しい。

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