もうひとりの自分への分かれ道

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メモ。

考えなしの行動が多いことを省みる。

自分のアタマでよく突き詰めて考えることは、本当に大切なことだ。それは自分のためになる。

合理的に物事を考えるためには脳の安定した動作が必要だ。瞑想が良いらしい。ヨガもいいけど、手軽に始められるのは瞑想かな。

受け取った情報に素直であること。
情報は受け取った時点で既に歪曲しているのだが、それをさらに都合良く操作しないよう気をつける。

突き詰めて考え抜くこと。
安定を維持すること。
インプットに身を任せること。

意識すると、新しい思考体験に繋がる。
同じ景色が違って見える。
同じ人が違う人に見える。
初めて見た(出会った)ときのイメージがリアルに沸き返ることもある。

一見当たり前に思えることが当たり前ではないかもしれない。
そんな簡単な疑問を邪魔するのは、歳を重ねるごとに増えて行く過去の類似した経験だ。重ね合わせやすくなってしまうのだ。深く突き詰めてみたら全く違う理解ができるかもしれないチャンスを見逃している。

各々が深い人生の皺を刻み、各々の内なる宇宙を持ち、その深淵を探検しながら生きている。各々の深みを知ることは不可能だが、その存在を前提に接することができない人は想像力が欠如しているし、致命的な孤独の前触れだ。自分はこのあたりに問題がある。うまくできていない気がする。

他人に対して探究心が湧き上がるとき、様々なことに気づく。
人が場に応じて柔軟に当たりを良くするのは、社交としてのプロシージャに従うことで安心感を得るためだ。それは同時に自己防衛をもたらす。

本人が見せたくないと考えているものを感じ取るのは容易ではない。しかし必ず何処かに兆候が現れる。人間はメカではないからマニュアル化は出来ないが、それを柔軟に感じ取ろうとするのが感受性、理解しようとするのが想像力、共感しようとするのが協調性だ。

理解出来ない人の思考を理解したい。そこには平面的な事実だけでなく、過去から現在までに絡み合った複雑な事情がある。
人を理解するというのは難しい。
現在の断面、それも一部だけを見て、全てを知ったつもりになるのはバカだ。思い上がりだ。

理解のきっかけすら得られないのは、生きてきた環境や過去の経験に差異がありすぎるからだ。だから似た者同士が集まると安心感がある。それはよく分かるし自分だってもちろんそうだ。でもなんだか先に進んでいないような感じがする。限られた人生の時間の中で、大切な何か温かいものを見逃してしまっている、知らずに失ってしまっているような感じがする。
全く違う人生を歩んできたもの同士が何処かに小さな共通点を見出して、それをきっかけに理解しあおうとするプロセスが好きだ。
拒否は思考のチャンスを失う。
もう一度、考え直してみなければ。
しかし相手の距離感を解決せずに安易に近づくのは危険だ。
でも理解したいのにいつまでも心残りのまま距離を置いているのは辛い。
ところが近づきすぎると頭の中で何かの警告音が鳴り響く。その警告音は一体何を意味しているのか。

自分は人と人の関係の発展性と永続性について何か大きな誤解をしているのだと思う。もっとシリアスにならなければ理解出来ないし実践も出来ないだろう。孤独を感じ続けるしかない。

つまり、失敗を恐れる臆病者なのだ。
さらに、自信を失い続けている。
最近では、誰かの心を動かすに値しないと思っている。

そのため、ここ何年かの間は特にそうだが、なるべく考えずに済む方向に無意識に逃げてきたのだ、ということがわかった。

感じるだけなら楽だ。
理解するのは大変だ。
そこから何かを生み出すのはもっと大変だ。

人を理解するのは疲れる。
ましてや特に興味もない人を理解しようとすることなど、苦痛だ。
限られた集中力を人生の何に費やすのか。よくわからない。価値観の変化か、若くて何もわかっていなかったのか。いままで当然のようにあった優先順位がバラバラになってる。

自らの行動が与えうる可能性をもっと信じ、よく考えて、手遅れになる前に動かなければならない気がする。
それが将来に続く別々の道の、ほんの小さな分岐点なのかもしれない。

Life, you're driving me so crazy!

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