例えば選択。
選択とは常に選択肢から選択される。つまり選択肢として思い浮かばないことは選択肢に含まれない。これが無知である。
仏教の世界で「愚痴」とは無知、つまり愚かであること、真理に暗いことである。これは三毒のひとつとして数えられることもあるほどの煩悩のひとつである。
無知であることを自覚していれば、己の独力だけでは思いつかない叡智が存在し得るという前提に立てるが、そうでない場合は思い浮かぶ数少ない選択肢に追い詰められ、挙げ句の果てには世の中や他者を責める感情に支配されるところまで堕ちる。
また、新たな選択肢を発見するということは、イノベーションであり、発明であり、パラダイムシフトであり、革命ともいえる。イノベーションとは所詮その程度のことであると言い換えることもできる。
選択肢の幅広さをもつ才能・才覚は、経験と深い関わり合いがある。ひとつの経験から学ぶ量には個人差がある。これもまた、無知を自覚して好奇心を外に向けているか否かと深い関わり合いがある。
選択肢に行き詰まったとき、他者(人とは限らない)を師と仰ぐことは決して恥ずべきことではない。むしろ己の限界を認めず他者の叡智からひとかけらの智慧を授かり承けようとする謙虚さがないとき、それはみっともなく見えるものであるし、叡智ある行動ともいえない。
己の無知を受け入れて等身大に恥じたときこそが、成長を約束された瞬間なのだ。
選択についてさらに言えば、人は選択したと思いこんで選択していないことが多々ある。
たとえば選択したときに思い描いた行動がとれないことがある。選択とは未来の特定の時におけるゴールのスナップショットだが、そこに至る道程には必ず行動が必要となる。その行動が想定されておらず選択の結果の可能性だけを想定しているとき、それは選択にすらなっていない。これは選択のための必須条件である「決意」の欠如である。
たとえ決意したところで、内的要因・外的要因によって行動が成され得ぬことがある。この場合にも選択していないことになる。選択したつもりで、そのとき選択肢に現れなかった別の道を選択したことになる。
このようにして、選択とは決して「Aを選ぶかBを選ぶか」などといった単純なものではないことがわかる。
可能性という「YESでもNOでもない」状態から成果という既成事実を手にするためには、決断・確信という大きな意思決定を伴う必要があり、人はこれを決意や覚悟と呼ぶ。
大きなことから微細なことまで、ひとは毎日決断や覚悟をしている。たとえば今日の晩ごはんに何を食べるかについても決断をし、その結果を受け入れる覚悟をしている。いま水を飲むか否か、郵便局に行くか否か、痒い背中を掻くか否か、その決断はさまざまなタイミングで成され、行動しないという選択もまた意思決定のひとつだ。行動しないということは、そのタイミングにおいて他の行動を優先するというだけのことだ。
後回ししてよいことと、後回しすべきではないことの決定。これは、精神的健全性と深い関わり合いがある。
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