愛でてよし、食べてよし

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予防策「防波堤を築く」という意味で、本日心療内科に行ってきました。
数年ぶりだったので問診票に記入し、久々に合った先生に状況を説明。説明しながら、「あ、まだたいしたことないな」と思いました。
たいしたことがあるのかないのかを判断すべきは自分ではないので、行ってきたわけですが。過去の失敗は繰り返さない。
結果、それほど悪い状況ではないということで、最低限の抗うつ剤を処方してもらいました。
睡眠障害は無いので、導入剤は無し。

抗うつ剤は、しばらく飲み続けないと効果が出ません。2週間様子を見て、量の調整をすることになりました。
以前も書きましたが、初期の段階において病気の度合いが悪いから薬の量が多いとか、そういうことはありません。単純に、人によって効き目が違うからこの手の薬は少量から始めて、効果が出るレベルまで少しずつ増やしていくのが定石なんだそうです。

今回処方されたのは、かつて相性が良かったC17H16CIN3O (Amoxapine) を、25mg/dayです。

第二世代の三環系抗うつ薬で、SSRIやSNRIと比べて副作用が大きい(肝毒性・心毒性がある)ことと、効果が出てくるまで2週間前後かかるという問題がありますが、 強力な抗うつ作用があります。少なくとも私にはよく効くものです。
後述しますが、薬の力だけでどうにかしようとして飲むわけではありません。気持ちを持ち上げる代償として内蔵を破壊しているわけですし、なるべく早く、薬を脱したいです。ただ、この薬は勝手に止めるとひどい副作用を誘発する恐れがありますので、医師と相談しながらになります。

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うつ病の気分の状態についてちょっと考えていたことがあるので、今日はそれについて書いてみようと思います。

化学的にも医学的にも根拠がない、ただ私が個人的に感じていることを書いているだけなので、ご理解ください。

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青いグラフ: 感情の起伏。気分の状態。上にいくほど幸福感が増し、下にいくほど絶望感が増す、つまり落ち込んだ状態。脳内環境と連動しているのだろう。
赤いエリア: よくわからないもの。心という一体どこにあるのか良くわからないものの何か。下に落ちれば落ちるほど密度が増し、重力が増す。

▼以下に示すグラフが、私の考える「健常な状態」

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中間の状態はグラフ中央のライン。感情の起伏が上方向にも下方向にもある。
基本的に赤の濃いところまでは滅多に落ちない。それは、心が体(脳)をコントロールできているから。
精神は常にバランスを保つように調整されている。つまりグラフ中央付近に落ち着くように働いている。
ハッピーなことがあっても永遠に浮かれていることはなく、いずれ落ち着くし、悲しいことがあっても寝たり泣いたり食べたり笑ったり気分転換したりして、元に戻る力が働く。

▼ところで、うつ病というと以下のような状態を想像する人が少なくないと思う。

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赤いエリアはそのままで、青いグラフが落ち込んでいて上がれない状態を示している。
しかしこれは、ただの「落ち込み」で「うつ病」ではないと思う。
この「落ち込み」状態が長く続くと脳内物質の分泌が不足しているということになるが、赤い部分が正常なのだとしたら、それは例えば他の病気に起因する「内因性」のうつ病のことではないか。その場合、原因となる病気を治せば、自然に気分もよくなる。
ちなみにこの状態を持ち上げるには、自然回復のほかに抗うつ剤が役に立つ。薬は、青いグラフを持ち上げてくれる。

▼私が「うつ病の予兆」と言っているのは、以下のような状態だ。

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このグラフの青の値は、1枚目のグラフと同じ。つまり感情の起伏は、なんの異常もない状態。
ただし、赤いエリアの水位が違う。1枚目のグラフでは50%の位置だったが、このグラフでは80%の位置。
このような状態では、まず初期には普通に生活していて、感情が働いている。
しかし、赤いエリアの影響が大きいため、いったん何かのきっかけがあると、沈み込んでしまう(うつ病を再燃させてしまう)危険がある。
時間の経過もマイナス要因であるように思う。とにかく、この状態が長く続くと、悪化しやすい。
冬期にうつ病が悪化する人が多いが、冬期はこの状態になりやすいのではないだろうか。日照時間と関係がある気がする。

それから、落ち込んだ状態を薬で持ち上げたときも、このグラフのような状態。
実際、赤いエリアから上に顔を出している部分が増えているから、結果的に「落ち込んだ状態」から抜け出している時間が増えたということになる。これが、薬の聴いている状態。薬を否定する人がいるが、とにかく上げた状態になるのは確かだから、飲んでいる限り次のステージに進むことは抑えられるか、または遅らせられる。その間に何とかしろっていう執行猶予が得られる。

この「何とかする」を間違えると、コケる。
何とかするのは青いグラフではなくて、赤いエリアのほうだ。
どうしたらこれが普通の状態になるのか。次のステージに進む前に何とかしないといけない。
薬はだんだん効かなくなる。ここは、自分と病気との攻防になる。薬を増やしても完治しないのはこういうことだと思う。

▼さらに病状が進むと以下のような状態になる。

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こうなると、そう簡単には上には抜け出せない。
「何か」(エネルギー?)が尽きたところで、赤いエリアから完全に出られなくなる。
無感動の状態。映画を見ても音楽を聴いても感動できないし面白く感じられない。絶望感。暗闇。

ブラックホールには、「これ以上近づくと光ですら脱出できなくなる」という「事象の地平」(イベントホライゾン)という境界があるが、精神状態もそのラインを越えてしまうと、自力で戻ることはできないように思う。

うつ病の原因としてWikipediaにはセントロニンやドーパミン云々の記述があるが、これは心因があってその結果でしかないと強く思う。
前段として、心の問題があるに違いない。その結果、脳内物質の不足等が発生し、それが更に、気分を落ち込ませるという結果を呼ぶ。

外的要因が心へどのような影響を与え、それがどのようにして脳内の化学環境の変化につながるのか。

現在、心療内科や精神科で一般的にとられているのは薬などによる対症療法だ。(薬以外にもマイナーな方法はある。電気を流すとか温めるとか。)
ほかには、漢方がある。漢方は一体どこに効いて来るのか、私は専門家ではないから分からない。

少なくとも、対症療法がとられる西洋医学の力が介在できるのは、上記の青いグラフの上下をコントロールするだけ。

ひとが心を病んでしまう原因は千差万別だろうから、これに本気で取り組むことができるのは自分だけだと思った方が良い。
医師がそこに切り込むのなら、患者と本気で向きあわなくてはいけないし、マニュアル通りのカウンセリングでなんとかなるものではないと思う。

長い間感情の起伏に晒されると、精神的に疲弊する。
ゴムの伸び切ったバンジージャンプ。定員オーバーの旅客機。気の抜けた風船。
気分を持ち上げる、上昇能力の不足。さらに落ちる。また上がれなくなる。悪夢のスパイラル。

スポーツの効能について。

スポーツをすることによって、例えばランナーズハイのように脳内に分泌されるエンドルフィン等によって直接的に気分がよくなる効果はあると思う。
また、体力が強化されることによって、落ち込んだ状態でも日常生活を送れるガッツがつくかもしれない。
スポーツによって気分転換できるので、それも気分をよくするきっかけになる可能性がある。
逆に、運動をして体力を使い果たした直後に、ちょっと落ち込んだ状態になることもある気がする。
長期的にみて、うつ病の原因となっていることを「吹っ切れる」とか、「忘れられる」とか、「耐えられる」ようになる期待は持てるかもしれない。

音楽の効能について。

音楽に限らず、視覚以外の情報をうまく利用するのはいいと思う。とくに私のいる業界のように視覚情報に思いっきり頼りがちな生活をしていると、視覚的なものから感動を得ることが難しくなる。慣れきってしまうから。
普段あまり食に興味のない人なら、たまにものすごくおいしいワインを飲むとか、奮発しておいしいものを食べに行くとか、そういうのも悪くない。
聴覚、嗅覚、触覚は、都会暮らしをしていると特に使われなくなる。
美しい音。音楽。川のせせらぎ。海にいくと落ち着くのは波の音があるから。
花の匂い。アロマ。お香。そういうものが、普段刺激されないところを刺激してくれて、とてもいい。
ただし、うつ状態の真っ只中にいると、そのような情報を受け止められない。
だから一旦薬で持ち上げておいて、他の手段で引っ張る。

生命活動(エネルギー)のベクトルについて。

外向きと内向きのバランスがある。崩壊すると死に至る。
躁状態だと、外向きの力が強くなっており、うつ状態だと内向きになっているように感じる。
内向的になると全てが悪いかというとそうでもない。

健常時よりも考察が深くなる。思考範囲・行動可能範囲の限定により、深い思考に入ることが容易になる。
しかし、さらに悪化すると、秩序だった思考の継続も難しい状態になる。

自意識と肉体と精神のつながりがよくわからないことが、精神的な不安定を作り出しているのではないかと主張する人がいるが、私はむしろ逆であると思っている。

「自分とは何なのか。自己とそれ以外の境界線はどこであるのか」という、哲学的な問いになってしまう。
残念ながら哲学の知識は無いも同然なので、独自のトンデモ哲学を展開するしかないのだが。

私がものを考えなくても春になれば桜は咲く。走っている車のガソリンは減っていく。これらは私の肉体とのつながりがない、もしくはほとんどないと言えるほどに希薄である。

故に私が観察していなくても咲く桜の花や減っていくガソリンは私自身と関連していないと考えてよい。本当によいのか?
では私の肉体についてはどうか。
呼吸はどうか。心拍はどうか。爪を切り落とすことによって私自身の何が変化するか。
髪を切り落とすことではどうか。怪我はどうなのか。
それは神経なのか。それとも細胞の集団活動なのか。はたまたDNAなのか。脳だけなのか。
私の肌と触れている空気や服の繊維はどうなのか。私が流す前の体内にある汗と、流した後の蒸発していく汗はどうなのか。
体中を駆け巡る血はどうか。かさぶたはどうか。
私自身をえぐり出す明確な境界線はあるのか。
愛情はどうか。愛する家族を失ったとき、自分の身の一部が切り落とされてしまったような感覚になるのはどうなのか。
自分の遺伝子を引き継いだ子供はどうなのか。別々の「意思」をもって動くふたつの生命体をひとつの精神体もしくは心として定義することは果たしてナンセンスなことなのだろうか。
それは単純に利己的なだけではないのか。自分の独立性を保ちたいという無意識(あるいは意識)がそう決めつけることで安心しているだけではないと誰が、それは証明できるのか。

心象は何処で描かれているのか。
脳内のパルスであり、化学反応であり、その結果であるのか。
そのパルスを作り出す動機は、化学反応を起こす動機は、すべて外部からの刺激に対する反応で片付けられる問題なのか。

もしそうでないとするならば、うつ病が心の状態変化によって脳内物質の状態の変化を励起しているように思われるのと同様に、心と呼ばれるなにか――わたしたちが感じたり考えたり普遍的でいる意識、形而上も含めたなにか――によって私たちの脳内パルスや化学反応が起き、それが結果として運動神経、あるいは感覚神経に影響を及ぼしているのではないのか。

数学的、物理的な存在であるとするならば、常に右辺と左辺は釣り合っていなければならない。
現在の人間の行動はすべて、最小単位に分解して分析したら数学的に説明のつく反応の連鎖が重なって結果を生み出している(思考も含めて)と考えていいのだろうか。私がこのようなことを書いているのもすべて、風が吹いたからなのだろうか。「反応」の高次化を積み重ねていったら、そこに「人格」は形成されるのか。

心、あるいは意識というものが何なのかわからないのに、私はそれと共に生きている。
私には意識と無意識がある。無意識に支配されていると思うことがある。考えてもみなかったことに、影響を受けている。
だからこういうことを知りたいと思う。私のこの問題と密接なかかわりがあるように思えるから。

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