死して後已む

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以下の内容は、管理人の勝手な考え方を書き綴ったものなので、よろしく。

ある先生は、たったひとつの言葉で、子供たちに多くを語る。

「いいんだよ」

そしてそれは同時に、我々大人たちへの警鐘でもある。しかし感受性の弱い大人の多くはこういった言葉をぶつけられることに辟易している。彼らは白々しく美辞麗句を並べ立て、中身のない繋がりを保つことにしか興味がないのだ。大人だけで勝手にやってるならそれでもいいかもしれないけれど、彼らに子供を持ったり叱ったり褒めたりする成人としての器量は無い。あまつさえ子供に手を上げるなんてことは断じて許されない。周囲に誰も咎める人間が居なかったとしても。

  • イライラを子供にぶつけ、体罰を与える
  • 自らの失敗した人生を、我が子に再挑戦させようと、子供に努力を強いる
  • 子供が期待通りの結果を出さないと叱る
  • 老後の面倒を我が子に観てもらうことを当然と思う
  • 子供が自分の気に入らないことをしたら折檻する
  • 子供の相手が面倒だから無視する
  • 子供のことが好きではないから出来るだけ関わらない

このような体験をした子供たちは、大人になったら我が子に同じことをする可能性が高い。
それほどまでに親は子にとって絶対的な存在なのだ。

歪んだ子供たちは、本人たちのせいではない。

そして、歪んだ子供がそのまま思春期になり、大人になってしまうケースも、たくさんある。

愛情に飢えているけれど、自分が愛を他者に与えることを知らない。
興味がないのではない。与えるという行為自体に考えが及ばないのだ。
失うものは損。自分の利益にならないことのために自分の財産や時間や努力を惜しみなく費やすという行動の原理が理解できない。それは、大人から十分な愛をもらって育ってこなかった場合によくあることではないか?

人それぞれ、歪み方が違う。歪んでない人間などこの世にはいない。もし居たらそれは人の姿をとった神だろう。
その歪みこそが、人と人の交流や共感や摩擦などを産む。
愛のない人は、自分の歪みを棚にあげて、他者の歪みだけを否定する。
愛というものは優しさと同義ではない。まったく違う。優しくしてあげるなんて簡単なことだ。誰にでもできる。偽善者でもできる。愛というものは、無条件に受け入れることだ。無視することともまったく違う。無関心でいることともまったく違う。
愛というもののかたちを言葉で説明すればするほど、それは形骸化してしまう。なぜなら愛は第三者から見てどういうものかを語る対象ではないからだ。愛を理解できるかできないかは、人生の光と闇を分かつ重要な課題だ。

善=白、悪=黒という印象があるように、愛という言葉には、甘いイメージの刷り込みがある人が多いが、愛というものは非常に厳しいものだ。自分の度量が試される。

かねてから自分の中には、かなり歪んだ善悪のイメージ、愛のイメージ、憎しみのイメージ、無関心のイメージがあった。こうしたものを乗り越えるためには、所謂「いい人間」になればいいという問題ではない。そもそも「いい人間になりましょう」って、意味が分からない。
どうすればいいか、答えはここにある。
自分に厳しい人間になればいい。

この文章を読んでいて、胸が苦しくなったり、心が痛んだり、読むのが辛かったりしたら、それは、あなたのあなた自身に対する甘えが問題。常にあるべき自分をイメージしなさい。
そのあるべき自分がNOということは、してはならない。YESとささやくことがあれば、それを聞き逃してはいけない。耳をふさいで、無かったことにしようとしてはいけない。
それはあなた自身の心の奥底から湧き上がる、愛のイメージなのだから。

困っている人がいる。そんなの自分には関係ないね、と去ることも、手を差し伸べることもできる。手を差し伸べることによって起きるであろう様々な面倒を予見したあなたは、手を差し伸べないかもしれない。そこには、いくつかの「自分を納得させるための」理由があるかもしれない。たとえば「前回も助けてあげたのに、まったく同じことして」とか、「もしかして私が助けることを期待して、わざとやってるんじゃないかな」とか、人は、様々な「便利な」理由を妄想する能力に長けている。しかしこの妄想を現実のものにしてしまう、つまりその声に従って困っている人を放置する選択をしてしまうと、あなたという閉じられた世界の中で妄想は現実化する。そして次に同じような場面に遭遇したとき、自分が愛に従って行動できないことの言い訳をする能力が向上してしまうのだ。

愛は自己犠牲を推奨しているわけではないが、究極の形をとれば、そういうことになる。そして、先人たちの人生を学んでみれば、もしかして愛のために人生を捧げるのも悪くない選択なのかもしれないと思う。

そもそも、日本には「愛」という言葉が無かったらしいけど、言葉にすることがなくても感性として理解できる文化だっただろうし、日本では愛をあからさまに表現することはしない文化が発達していた。だからといって愛が無かったわけではない。
もしかしたらいまの日本を不幸にしているのは、そのへんかなと思う。
さりげない、気づかれない愛は、見えにくい。そこから、愛のない人生が生まれやすい文化の土壌ができてしまったのではないか、と。

誰かに嫌われても、あなたがその人を嫌う理由にはならない。
誰かにけなされても、あなたがその人をけなす理由にはならない。
誰かの存在が不快でも、それはあなた自身が不快に思っているだけだ。

子供の頃、思ったことはない?

大人はなんて馬鹿なんだろうって。
大人はなんでそんな面倒で非効率的なやり方をするんだろうって。
我々は「大人はいつだって正しい」という不動の石碑を信じて、それでも大人の言う事を聞いてきたものだ。
大人は、子供たちにとって、人生における頼もしい大先輩であるべき。

子供に、愛のない行動を許してはいけない。もちろん、あなた自身にも。
誰も見ていなくても、あなた自身が、それを見てる。記憶に刻まれる。そちらに向かって歪んでいく。歪みを戻すのは、大変だ。

赤の他人が相手であっても同じことだ。

自分が苦しいとき、悲しいとき、「誰か見て!僕を、私を、なぐさめて!」
これは、恥ずかしいこと?いいえ。誰かにエネルギーを分けてもらうためには、絶対に必要なこと。でも、誰かの優しさを得るために嘘をついたり、極端な行動に出ることは、相手に必要以上の負担をかけることになるから、やめたほうがいい。感情のまま自然にいることで、他者とのかかわりあいがうまくいく。

「後から謝るなら、しなければいい」
これは、他人に迷惑をかけるなという意味ではない。自分を必要以上に苦しめるな、という意味。

このようにして「愛って何だろう?」ということをテーマにして生きて行くと、すべての物事が繋がってくる。

金を稼ぐために努力してきた20代の頃には、考えることもなかったこと。
我々は、いったい何のために働いているのか?
何のために、毎日毎日長い時間を費やして、何かを作ったり、より良くしたり、金という目に見えない数字を追いかけ回したりするんだろう?

人によってそんなの様々だろう。
しかし仮に金のためだけであるのなら、どうしてみんな楽しくないって思わないの?
お金いっぱい稼いで、大きな家に住んで、高級車に乗って、いい服を着て、海外旅行にたくさん行って、あとはどうするの?

その答えは、死ぬときにしか分からない。

コメント

  1. よも より:

    「自分に厳しい人間になればいい」には賛同できないが、まぁ、答えは死んだら分かるだろうね。
    死んでみたことないからわかんないけど。