損得勘定で動くと、損しかしない。
これ、感覚で理解している人も多いです。
でも、論理で動いてしまう人、つまり「頭の良い人」ほど、これが実践できてない傾向があることを、僕はいままでの経験から感じています。
そうした人のために、書いてみようと思いました。
損得勘定で動くか動かないかは、「人」に属していません。
「状況」に属しています。
おなじ人でも、あるケースでは損得考えて動いてしまったり、ある別のケースでは損得考えずに行動したりします。
ここで考えていきたいのは、
「これに関しては損得勘定で動くのは当然でしょ」と思うケース。
あるいは、
「損得勘定では動いてないと信じてるけど、実は深層で損得勘定で決断していることに本人が気付いていない」ケース。
どんな状況においても、損得勘定は自分にとってマイナスにしかならない、というのが僕の持論です。
理由はいくらでも挙げられます。
極めてロジカルな話なのです。
「これは損するからやらない。これは得だからやる。」
この考え方は、自分への言い訳です。
損するか得するか、分かる人はいない
損するか得するか、どうして分かった気になるのかというと、何かと照合しているからです。
(1) たとえば過去の似たような状況とか。
→「過去に同じようなことを何度もやったけど、うまくいった試しがない」
(2) たとえば人のアドバイスとか。
→「それは残念ながらうまくいかないよ。散々やってきたから言うけど」
(3) たとえば自分の思い込みとか。
→「そんなのできる気がしない」
→「どう考えてもできっこない」
→「できる道筋が思いつかない」
上記 (1) のケースで言えることは、過去にうまくいかなかった原因についてまだ考える余地があるということです。同じやり方を繰り返してもうまくいかないのは当然です。やり方を変えて散々やったけどダメだったということは「成功する道筋を思いつけるだけの器量が自分にはなかった」せいかもしれませんし、「適切なアドバイスを得られるだけの人脈を掘り尽くしてない」とも言えます。
上記 (2) のケースでは、なぜその人が損したからといって自分も損すると決定できるのか、ということです。やってみなきゃわかんないじゃない。
上記 (3) のケースでは、それは自分自身の現時点での能力の限界なだけであって、今の自分には見えていないところに答えがある可能性を無意識に見逃しています。
そもそも、損する・得するってなに?
あなたの人生において、到達したい頂上は何ですか?
お金が欲しい? → なぜ? 何のために必要?
安定が欲しい? → なぜ? 何のために必要?
地位が欲しい? → なぜ? 何のために必要?
一般的に「損する」というと、それは「時間の無駄になること」「お金の無駄になること」でしょうか。
「自分が進んでいる道と関係ないことに手を出して、時間/お金を無駄にしたくない」
「時間を有効活用したいのに、せっかく時間をかけてなにも【結果】が得られなければ損」
「なるべく時間とお金をかけずに期待した【結果】を得たい」
「たったこれだけの努力で大金という【結果】を得たから得をした」
ではその【結果】とはなんでしょうか。【結果】に期待するって、いけないことなのでしょうか。
結果は後からついてくるから期待したら負け
あなたのその小さな脳みそで想像できる未来を期待すると、「期待する結果」というものが生み出されますが、これはあなたの脳内幻想の限界を示してもいます。
期待しない結果というものが常につきまとうのが人生です。
しかし期待という枠組みを取り払って考えることができたら、得られる結果はすべてプラスにしか働きません。
「なんだかよくわからないけど、損得抜きでやってみたら、思わぬ結果が得られた」
「その思わぬ結果から、次のステップを考える」
これは、広がり方向に進む行動です。いままでの自分だったら絶対にとらなかった行動をあえて取ることで、その結果どうなるかを体験し、次の考えに広がっています。
しかし損を気にして動かないと、なにも変わりません。
過去の自分の価値判断基準でしか行動できず、得られる結果もその範囲内に留まります。
しかし世の中のあらゆることは、常に状況が変化しています。
ですので、過去の経験や現時点での価値判断基準だけで行動するときでも「失敗する可能性」があるということが盲点になっています。
- 損しないように行動すると、損しないけど得もしないか、あるいは損してしまう可能性の中で選択せざるを得ない。
- 得するように行動すると、得しなかったときに思考停止したり、得という限られた結果以外のものに目が向かなくなる。
損得勘定は、失敗したくない言い訳でしかないばかりか、自分の可能性を狭める危険な考え方だというところに至りました。
気づいたときの行動で変わる
僕もよく、損得勘定で考える自分に気づきます。
大事なのは、気がついた時、どうするか。
僕は、チャレンジします。
それは、過去の自分へのチャレンジであり、自分の心の狭さに対するチャレンジです。
それは、何も考えずにただ突っ走ることではない。
自分の直観を尊重するということです。
意識できてないもうひとりの自分、内なる自分、またの名を、潜在意識といいます。
こいつを動かすためには、まず解放してあげる必要がある。
解放するには、まず信頼してあげる必要がある。
不確定要素が多くても、飛び込んだ先に何が待っているかわからなくても、命をとられたとしても、後悔はない。それよりも、飛び込まなかった後悔のほうが、恐ろしいのです。
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