Angel’s Feather

この記事は約3分で読めます。

最近よく、聖書に目を通します。
主にJA1955(日本語)、KLV(英語)を導入として、今後は訳の比較もしていきたいと思うようになりました。ヘブライ語やギリシャ語が読めたらもっと深く洞察できるようになるのだろうなあ。訳の違いは時代背景を浮き彫りにしますから、歴史を感じながら読み解くのもまた楽しいのです。

わたしはキリスト教の洗礼も受けていなければ、聖書研究者の肩書もありません。古代から続くさまざまな書に秘められた伝承はイマジネーションを刺激します。インドの二大叙事詩「マハーバーラタ(महाभारतम्)」と「ラーマーヤナ(रामायण)」はインド神話を構成する重要な文献です。とくにラーマーヤナは世界三大叙事詩のひとつと言われています。

三大叙事詩の残りふたつは、古代ギリシアの「イーリアス(Iλιάς)」と「オデュッセイア(ΟΔΥΣΣΕΙΑ)です。

日本にも様々な古典が残っていますね。

目に見えないなにものかの存在を神とするのならば、幼少時にはそのような存在を自覚していたように思います。埼玉県の星和幼稚園というカトリックの幼稚園に通っていたのですが、それは偶然ではないと今では思います。

小学2年生で千葉県に引っ越したのですが、与えられた部屋の窓からいつも眺めていたのは、近所の教会の屋根の上に立っていた十字架。夜はライトに照らされて暗闇の中で輝いていました。

小学生から高校生までボーイスカウトの船橋12団に所属していました。そこでもさまざまな宗教観や「そなえよつねに」に関わる多くの学びを得ました。

高校2年生から3年生にかけて留学したアメリカでは、毎週日曜日に教会へ礼拝に行きました。最初のホストファミリーの家には小さなピアノがあり、聖歌の練習をしたのをよく覚えています。

初めて訪れたインドでは、神秘体験をしました。

ごく最近までわたしは、自分の身の回りに起こる不思議な現象や奇跡のような出来事をすべて「偶然」で片付けてしまっていました。

しかしある時から、偶然ではないと思うようになりました。人間とは不思議なもので、どんなに説明のつかないような不思議な体験をしても、目に見えるものしか信じていないうちは何かしらの説明をつけてしまうものです。そのような状態であると、たとえ目の前に宇宙人やUFOが現れても、それを信じないのが人間であることを知りました。

間違いなく自分は何かに守られている。ご先祖様、神様、仏様、あるいは他の何か。それはもしかしたら全て、同じものを違う視点で説明したものに過ぎないかもしれません。

わたしは決して特別な存在でも特殊な能力を持っているわけでもありません。これは全ての人に与えられた可能性です。それを享受する・しないも自由な仕組みです。

今日はヨハネの黙示録について調べていたら、行き着いたところはヨブ記でした。ヨブ記には、いまの自分にとって重要なヒントがあると感じました。

そこでふと、わたしが卒園した星和幼稚園の記憶が戻ってきて、公式サイトを検索して開いてみたら、いろんな感覚が流れ込んできました。

わたしはそこでなぜか感無量になってしまいました。喜びの涙を流しました。

わたしはたまに、ペンやキーボードを手にすると勝手に手が動き出すように文章を書き始めます。アンコールワットの後には寝言のようにひとりごとまでつぶやき、それを録音して書き起こしたこともあります。

こういうことを書くためには覚悟が必要です。やばい人と思われる覚悟です。事実は事実でしかないから、隠しようがありません。

今日もまた、何かを受け取っています。


天使の羽のように軽くあれ。
淀みに身を沈める必要はない。
あなたは、必要とされるために努力をする必要はない。
あなたが愛するものごとを愛せばそれでいい。

羽のように軽い感覚を知っているだろうか。
羽はつかもうとすれば逃げていく。
触れたければ追いかけて、手のひらをそっと差し出すしかないのだ。
羽を握ってしまえばそれは拘束される。
しかしそれはあなたの良心にかかっている。

あなた自身が羽であろうとするならば、他者も同様であるように遇すること。

コメント