自己制御

伊勢から戻って以来、心が落ち着いてる。

僕が出すアイデアは市場にある潜在需要や時流も踏まえ、エンドユーザの立場になって考え抜かれている。導入効果も他を追従しない自信があるし、カスタマーサポート効果も高く、手軽に利用できる上に、変化に対する柔軟性と将来の可能性が高い。

しかしここまでの道のりは、決して平坦ではなかった。僕がただ弱いだけなのかもしれないが、伊勢から帰ってきてふと腑に落ちたのは、僕の頭の制御が常に難しかった可能性だ。ふと思ったのだ。もしかしたら頭の制御に多くの人はここまで苦労していないのかもしれないと。そのような比較に意味がないことは分かっているが、この新たなる認識は、自分が今まで苦しんで乗り越えてきたことの説明がつく。

「新しいアイデア」というものが発案者にとってセンセーショナルであるうちは、リスクが潜んでいると捉えた方が良い。素晴らしく見えるアイデアであればあるほどに、冷静な評価を要する。動じなくなるためには無数の失敗経験と成功経験を重ねることだ。未知のものに飛び込むことが日常茶飯事になれば、常に未知の海を泳いでいる状態になる。それに慣れることだ。

口で言うのは簡単だが、やるのは根気と信念と弛まぬ努力が求められる。好きじゃなきゃできない。

面白いことが毎日起きている。

久しぶりに重い荷物を目的地まで届け終わったコンテナ船のように心持ちが軽く、頭がキレ良くまわる。まだ見た事もない景色を伴う夢をまた見るようになった。この夢は僕にとってとても大切なのだ。この世に再現しようもない夢の中の景色は僕の胸の高鳴りとともにインスピレーションを最大まで高めてくれるのだ。その夢は眠っている間に見る事もあるし、昼間に見る事もある。昼間に見るときは変な集中状態でマイワールドに没頭してる感覚で、普段よりも密度の高い変性意識状態にあるのだろう。

遠く霞んで見えてきていた次の寄港地がくっきりと見えてきた感じがする。羅針盤も地図もない船に乗る醍醐味はここにある。

物事の輪郭がはっきりと見える。

僕は生まれた時からこの頭と共に生きてきて、たいへん苦労したようだ。まったく手に負えなかったのだ。

ここまでコントロールできるようになったのは奇跡に近いと思う。知識だけで制御するなど不可能だった。勝手に思考する手に負えない頭。勝手にいろんなものを生み出し、思考がまとまるようになるまでは同時に何百ものことを考えることを強いられた。そのうち頭の中にあるタスクを一列に並べられるようになったが、季節の変化や置かれた環境、外部からのストレスなどですぐに変調をきたした。

僕の頭には致命的な欠陥がある、と結論しかけたことが何度もあった。しかし僕は死ぬに死ねず、苦しみから逃げる方法を持たず、だれにも理解されない悩みを1人で抱え込んできた。抱え込んでいるだけでは前に進めないから、内なる闘争を続けてきた。

あるときは知識に貪欲になり、寝る事も食べる事も忘れて暴走する。またあるときは、とにかく寝る以外の何もできなくなる。常識的なことが常識的にできない。僕の常識はだれにも理解されない。孤独を受け入れる方法すらわからなかった。

僕は僕によってコントロールされていなかった。今でこそわかるが、それがコントロールされるようになるためには、ある臨界を超える必要があったのだ。

僕は自分の無意識の輪郭を捉えようとした。無意識だからこそ、直接的には把握できない。

小学校3年生の時に目に見えて破綻した。それまでも何度かあったけれど、社会的な影響を伴ったのはそれが初めてだった。長く続いた不定愁訴を近所の小児科は「自家中毒」と診断した。母に連れられて大学病院まで行って、ロールシャッハテストやら知能テストやら脳波検査やら様々な検査をされた。結局医者にも何もわからず、「自律神経失調症」と言われた。

実際には脳の失調みたいなものだった。当時はそれがわからなかった。自分の脳の働きを自分のペースで使うことを社会が規制すればするほど僕の脳は反発していた。

我慢できる人が羨ましく思えた頃もあった。

しかし僕は不安定な思考、不安定な精神、不安定な全ての認識から逃げることはできなかった。

とうとう手に入れたのだ、この安定運用を。今でも暴走することはよくあるけれど、付き合い方も高度化してきた。

それが今とても調和している状態なのだ。

これを崩そうとする流れもだいぶ理解した。僕には防護壁がない事もわかってきた。

防護のないなか、攻撃しているという意識もない悪意なき悪意がこの世を飛び交う。相手に届いてないと思い込んでいる思考や感情が相手に届くことはあるのだ。

そうしたものを微細表情から無意識に読み取るのが人間の能力だという至極科学的な(但し古典科学的な年寄り臭い)捉え方を是とするならばそうしてもよい。オカルトじみててもよい。世の中は理解できないことだらけでひとつひとつ考えてたらキリがないと考えるのをやめてもよい。

果たして僕が精神とか心とか思考とか知性と呼ばれるモノ……そのほとんどの機能が脳内にあると信じられている……に対して人一倍難易度の高い課題を抱えていた何かしらの問題を抱えた頭を持って生まれてきたのか、単なる発達の過程で生じていた発達障害であったのか、あるいは精神力が弱かっただけなのか、真相は分からない。

しかし自分の思考とか意思とか無意識とか、そう言ったものに対する興味はかなり前からあった。そういうことについて考えたくなくても考えていた。

僕は自由意志の存在を肯定できていない。自分がなぜそう考えたり思ったりしたのかについて突き詰めると結局、自分が世界をどう感じとってきたのかという感受性の多様性に至らざるを得ないからだ。

感じるものや感じてきたものが個性を作り、それが思考を組み立てているのだとすれば、端的に言ってやはり罪は俗人化できない。罪を憎んで人を憎まずとは根本的にその認識が前提にあるものだ。

多様性の破壊は幻想である。なぜなら思考によって感受性を制御することは不可能だからだ。それをしようとすればそれによって生じた歪みのしわ寄せは必ず何処かに出る。

この大前提を覆す事実は今のところ観察できていない。

従って人がエゴでどうこうしてるとかまったく興味が起きないし、依存関係という幻想の不毛さに付き合う事もしない。

過去に感じたものは既に存在しない。完成の記憶は抽象化されて丸められたデータとして、本能の指針になるようプログラムされている。

大切なのはいま感じていることだ。

いま目の前で起きる壮大な夢やドラマ。脳裏に浮かぶまだ見ぬ景色。見た事もないような色彩のダンス。聞いた事もないような旋律。匂い。触感。味。そしてそれらでは感じ取れないさらにさらに微細なものを感じ取る何か。

インプットが甘ければアウトプットが甘くなるのは自然だ。インプットが豊かであればアウトプットも豊かになる。

冗長な表現は伝わらないジレンマから来るだけのこと。

要因は存在しない何かを生み出すプロセス。

意思はコントロールできない。できると思い込んでいる人は条件式のプログラムを形而下に形成してるので、その分頭が自由に働かなくなるのも当然のこと。

自由意志の自由とは己のエゴによる自由を示してはおらず、本当に自由だからこそ己の決定事項からも自由である。